第四章 誕生

    一

 婚礼の宴には、村人の他、伊賀中から長老や地侍、忍術を競い合った若い忍びなどが列席した。駒八の姿もある。
 市平の横に並んだ七津奈は、緊張のあまり木の人形のように固くなっていた。舞台で堂々と舞う姿からは考えられない。盃事を手伝う子どもが、思わず笑うほどだ。
子どもと目が合い、ようやく少し力が抜けたらしい七津奈は、何とか婚礼の儀式を無事に終えた。
 その後、挨拶を任された長老が皆に言った。
「伊賀最上の若者に、我らから新しき名を贈ろうと思う」
 大人達は賛同の拍手を送る。
「市平、今日からお前は服部保遠(やすとお)じゃ。「保」の一字は、服部宗家から格別に下されたもの。「遠」は永遠──永久(とわ)に伊賀の民と伝統が存続することを願うた名じゃ」
 市平は長老に頭を下げ、それから皆に向かって手を突いた。
「新しい名をありがたく承りました。伊賀の男として、また、服部平氏の一角として、恥ずかしゅうない生き方をして参りたいと思います」
 一同は盛大に手を叩いた。
 皆は宴を楽しみ始める。
 老いも若きも歌い出し、踊り出した。太鼓を叩く若い忍びに合わせて、駒八が得意の笛の音まねを、扇一本で披露する。宗次郎は大食い芸を見せ、料理を運ぶ村人達の度肝を抜いた。
「まだまだ食えるぞ。さっきの草餅はうまかったなあ。もうないのか」
 宗次郎は赤い頬でへらへらと笑っている。
「お前、食い過ぎだ。しかも、飲み過ぎだろう」
 酒がまるで顔に出ない駒八が、宗次郎の頭をはたく。
「いいじゃないか、今日くらい」
 そう言って、高砂の座にいる市平と七津奈を見遣った。
「いやあ、こうしてみると、七津奈も随分、綺麗になったなあ。伊賀に来た時は、もやしみたいな女の子だったが」
「くそっ」
 駒八が、大きな茶碗に酒を流し込み、荒々しく飲んだ。
「あんな女、京にもめったにおらんぞ」
「そうかなあ」
 宗次郎はとぼけた風に、草餅をぱくりと頬張った。
「俺は駒八ほど都に詳しくないから、よくは分からないな」
「よし。じゃあ、今度、俺が遊び方を教えてやる。お前はまだ若いから、ああいう清い娘より、もう少し熟した女に指南を受けたほうがいいだろう」
「そんなもんか?」
「ああ、俺に任せておけ」
 駒八は、宗次郎の頭をぽんぽんと叩き、機嫌を直して豪快に酒をあおった。

 淡く燃えた夕陽が落ち、服部家が夜の帳に包まれ始めた頃、誰もいなくなった広間に、婚礼衣装の七津奈がぽつりと座っていた。
 市平改め服部保遠は、紋付袴で門前へ出て、客達を見送っていた。手伝いをしてくれた村の衆も帰り出す。
 最後の一人が戻っていくと、保遠はほっと息をつき、庭から勝手口の土間へと回った。まだ少し片づけ物が残っている。保遠は上等な羽織袴を脱ぎ、日頃使っている、くたびれた襷(たすき)をかけて水仕事を始めた。
 早く七津奈のもとへ行きたいが、二人きりになった途端、飛んでいくのはどうも恥ずかしい。
 一方、七津奈は広間から、保遠の気配を察し、重い衣裳で立ち上がると、土間のほうへと向かってきた。廊下へ足を踏み出した時、つまずきそうになる。とっさに、壁沿いの柱につかまった。
 次の瞬間、
 どさっ──。
 七津奈の姿が、その場から消えた。床板が抜け、落とし穴にはまったのだ。
 保遠は慌てて廊下へ駆けつけた。
 七津奈はあられもない姿でひっくり返っている。今にも泣き出しそうだった。
 保遠は一瞬、どうしてよいか分からなかったが、とにかく七津奈を引き上げようと、新妻の白い手を取った。
 七津奈は、その手を引っ込める。
「どうした?」
 保遠は、己の手が濡れているのに気づいた。
「冷たかったか」
 七津奈はうなずく。
「すまん」
 保遠は腰に下げていた手拭いで水をふき取り、七津奈の腕を支える。もう一方の手で肩を抱えつつ、廊下へ引っ張り上げた。
 着物の裾を整え、座り直すと、七津奈の目から涙が溢れ出した。
「すみません」
「いや……」
 七津奈は顔を隠して下を向く。
「悪いのは俺だ。ややこしい家だからな」
 保遠は眉を下げた。
「その柱の陰に、床が落ちないよう止めておく仕かけがあるんだが、ちょうどそこをつかんでしまったらしい」
 保遠は、柱の陰へちらりと目を遣り、再び妻を見る。
「それより、怪我はないか」
 七津奈は首を横に振る。しかし、涙はいっこうに止まらなかった。
「私……ぼんやりとした娘なんです。伊賀で一番の忍術者のお嫁さんになんて、なれません」
「…………」
 何を言い出すのか、こんなことくらいで。
 心配し、七津奈を覗き込んでいた保遠は、急に口元を緩めた。
「はははっ」
 声を出して笑い出す。
「この仕かけには、誰だってはまる。伊賀で一番の俺が考えた、精巧な作りだからな」
 軽い口調でそう言うと、七津奈も少しだけ頬の強張りを解いたが、まだうつむいている。
 そんな七津奈を、保遠は身体ごと抱き上げた。廊下を進み、薄暗い奥の部屋へ入る。部屋の真ん中に、そっと七津奈を寝かせた。
 片づけものなど明日にしよう。
 保遠は一旦、寝所を出ると、腰の手拭いと肩の襷をするりと外し、投げ捨てた。そして、紋付き袴の花婿姿に戻る。
 あっという間の早業で新妻のもとへ帰った。燈台に火を入れると、七津奈はまた畏まる。
 二人は端座して向き合った。
「七津奈、服部家へよう来てくれた」
 保遠はささやく。
「よろしくお願いいたします」
 七津奈は小さくそろえた指を床についた。
 保遠は花嫁の肩に触れ、身を寄せる。
 その刹那──。
 七津奈は縮こまり、絹の袖で顔を隠した。優しく袖を退けようとする。が、拒まれた。肩を抱こうとしても、かわすように逃げられ、とりつく島もない。
 恥ずかしがっているのだろう、と思いたかった。しかし、いつまで経っても避けられているような雰囲気がある。
 どうしたのか──。
 保遠は困った。
 七津奈の体の温かさと匂いは、思慮を忘れるほど強い衝動を五体に湧き起こらせている。この夜を、どれほど待ち続けてきたことか。
 だが、保遠はぐっと我慢し、七津奈の表情をよく見た。この愛くるしい乙女の心を、力ずくで壊すのは可哀想だと思う。
 恥ずかしがっているだけでないとすれば、今、当人が話したように、自らを卑下して、服部家の嫁になることをためらっているのか。
 しかし、何かそれも違うような気がした。

   二

 もしかして──。
 保遠の胸に不安がよぎった。
 考えてみれば、七津奈はこの家へ来てから、一度も嬉しそうな表情を見せていない。婚礼の席で固くなるのは分かるが、それにしてもひどい。
 ひょっとして七津奈は、この縁を望んでいないのか。
 ただ神のお告げに従って、ここに来ただけなのか。
 保遠は恐ろしくなった。
 だが、勇気を出して尋ねてみる。
「俺と夫婦になったことを、後悔しているのか」
「……いいえ」
 七津奈は袖の下からわずかに保遠を覗き上げて応えた。
「どうして、すぐに目を逸らすんだ?」
 保遠は七津奈の肩をそっと抱く。
「すみません」
「怒っているんじゃない。俺は七津奈に惚れている。どうしても嫁に欲しかったのだ」
「ありがとうございます」
 七津奈はまた、うつむく。
「礼なんかいらない。惚れられて、迷惑か」
 七津奈は首を左右に振った。
「すみません、本当に。私は……こういう時にどうしたらいいか分からないだけです。私は保遠様の妻になります」
 七津奈は拒む様子をやめ、だらりと手を下ろした。身を捧げるという表情だ。
 保遠には、その姿がたまらなかった。
 次の瞬間、七津奈から離れていた。
 何ということだ──。
 怒りや、やり場のない気持ちがこみ上げたが、とにかく哀しく、苦しかった。
 まるで生贄(いけにえ)になった娘ではないか──。
 保遠は、心の乱れを隠し難くなり、低い声で言った。
「俺の子を産めと言われたのだな」
 七津奈は目を伏せたままである。否とは応えない。
 保遠は深く肩を落とした。
 最も幸せな夜が一変し、地獄のように感じられた。
「俺達男は、勝てばそなたを嫁にできると思い、喜んで戦った。だが、そなたは、ただ無心に舞いを舞っていただけなのだろう。皆が当代一の巫女と勝手に決めて、婿を選んだ」
「保遠様……」
 七津奈は長い睫毛を上向け、目を開いた。しかし、言葉は続かない。
「そんな生贄のような気持ちで嫁に来れば、笑うこともなく、泣いてばかりいるのはもっともだ」
 保遠は投げやりな気持ちで言った。
「俺は鬼じゃない。娘の生き血をすする獣(けだもの)でもない」
 何もかも失ったように、保遠は傷ついていた。己は神に選ばれたと思い、眩しいほどの光に包まれたような心地でいたが、一寸先は闇である。
 七津奈は、消沈した保遠の顔を見た。
 間もなく、引けていた腰が直り、背筋が伸びる。濡れた双眸が何度も瞬きを繰り返すが、もう目を逸らすことはなかった。
 保遠のほうが恥ずかしくなるほど真っ直ぐに、夫を見詰めている。
「本当ですね……」
 七津奈の眉が、にわかに美しく開いた。薄暗い部屋に、可憐な野の花がひょっこりと咲いたようだ。
「鬼じゃないわ」
 七津奈が笑った。
 その瞬間、保遠は再び光に包まれた。
 新妻を抱き寄せ、唇を奪う。七津奈は目を閉じた。ふわふわとした唇は、この世のものとも思えないほどの味わいだ。保遠は七津奈の首をなで、白い衣の襟を分けた。白粉(おしろい)をぬっていない肩や胸も、雪のように白かった。素肌はかすかに汗ばんでいて、その湿り気と温かさが手に心地よい。
 目を閉じたまま、七津奈が恥ずかしそうに顔をそむける。今は柔らかい表情で、ほんのりと頬が赤かった。保遠は腰の後ろへ手を回し、帯を解く。自らも羽織袴を脱いだ。
 互いの前が開かれると、保遠はひしと七津奈に抱きついた。胸と胸、腹と腹を合わせる。渾身から熱い情が湧き出した。
 七津奈の息が保遠の耳元にかかる。落ち着かなかった息使いが、ゆっくりと深くなってきた。身体の固さも、かなりとれている。
「七津奈」
 呼びかけながら、温かく柔らかい七津奈の体と一緒になる。
 今まで、あらゆる欲を抑え、修行一筋に励んできた日々が、すべて報いとなって還ってきた。そう感じるほど、保遠の魂は踊った。
 息を整える修行を重ねてきた忍びが、今は激しく息を乱している。天にも昇るほど燃え上がっていた。
 甘い時は夢のように過ぎ──。
 保遠はごろりと仰向けになった。七津奈は静かに衣を引き寄せる。保遠は手枕で、七津奈の髪をなでた。黒髪がしっとりとして、よい香だ。
 安堵した保遠は、深い眠りに落ちた。

   三

 二人は、好き合って結ばれた男女のように仲睦まじく暮らした。
 ある日、夫婦は庭で洗濯をしていた。
「旦那様、このくらいのことは私が致します」
 七津奈は心苦しそうに桶を引き寄せる。
 保遠は手早く浴衣を洗いながら言った。
「忍びは何でもできねばならない」
「大変なのですねぇ」
 七津奈は感心したように、つぶやく。
「大変なものか。忍術はおもしろい。それに、生きる役に立つ。いろいろなことが素早くできるようになるし、丁寧にできるようにもなる。しかし、何よりも大切なのは知恵だ。困った時、何とか工夫して道を切り開く。それが術の見せどころだと思っている」
「そうですかぁ」
「昨日も、知恵を求めてひとっ走り、京まで行ってきた」
「えっ」
 七津奈は目を円くした。
「いつの間に?」
「買い物に行くと言って、出かけていただろう」
「ちょっと里の市まで出られたと思っていました」
 保遠はおかしくて笑った。
 七津奈は何度話しても、保遠の足の速さがよく分からないようだ。 
「都に名医がいると聞いたから、弟子入りでもしようかと思って様子を見てきた。しかし、患者とのやりとりを聞いていると、慈悲のない男でがっかりした」
「まあ」
 七津奈は洗い物も忘れ、ぽかんと口を開いて話を聴く。
「世には、徳の高い仁者(じんしゃ)など、なかなかいないものだな」
 その言葉を聞いて、七津奈は何か考え込む表情になった。
「どうした」
 保遠も手を止める。
「何でもありません。でも、私は少し驚いているのです」
 七津奈は保遠に目を合わせる。
「旦那様のように怖いもの知らずの忍術者から、仁者なんていう言葉を聞くとは思いませんでした」
 保遠は苦笑した。
「確かに忍びは、人の道から外れることを恐れない。敵の裏をかいたり、騙したりするのが生業(なりわい)だ。だからこそ、志は正しゅうせねばお終いだと、俺は思う」
 保遠は再び手を動かし、洗濯物をしぼり始めた。
「男も女も、賢(さか)しい者はごまんとおる。が、心が邪(よこしま)でない者は稀だ。忍びの者もまた、しかり」
 保遠は井戸へ釣瓶(つるべ)を落としながら、七津奈を見た。
「そなたは、私は気が利かないなどと申し、よく己を責めているが、抜け目のない女になどならずともよい。少し浮世離れしておるのが、芸道を歩んで参った者の品というものだ。俺はそなたを眺めているだけで、心が安らぐし、己にはないものが学び取れる」
「旦那様……」
 七津奈は涙ぐんだ。急いで目元を拭うと、洗濯の水が目に沁みたらしく、顔をくしゃくしゃにする。
 保遠は、すぐに綺麗な井戸水で顔を洗ってやった。
 七津奈は、器用ではないが、家の事や畑仕事が大好きな働き者だった。
 毎日のように二人で話をしたり、野良仕事をするうち、七津奈はいろいろなことを覚えていった。
 初めは、七津奈の白い手や足が泥に汚れるのが残念に思えたが、次第に働く姿も美しく感じられるようになった。汗を流しつつ、楽しげに笑っている妻は活き活きとして、保遠の心を幸せで満たした。

   四

 翌年、二人に健やかな男子が生まれた。その産声は、離れた隣屋敷へまで響き渡ったという。ただ、身体はやや小さく、人を見ると誰にでも、女子(おなご)のような愛らしい目で笑う赤子だった。
 この男子が、後の服部半蔵保長である。
 赤子が生まれて間もなく、保遠は七津奈に言った。
「名は何としよう」
「あなたが考えて下さいな」
「では、半三郎というのはどうだ」
 保遠は筆を執り、名を書く。
「『半』という字は、『平』という文字を少し変えたもので、我ら一族ではよく通称に用いる。左右が同形の字は縁起が良いということだ」
「そうですか」
「三も吉数。『三度目の正直』などと言うだろう」
「ええ」
 七津奈はほほえみ、腕の中の赤子を見る。
「半三郎」
 母の声で優しく呼びかけた。
 半三郎は、小さな手を頬の辺りまで上げ、くくっと笑う。
「おお、返事をしおった」
 保遠は、身体がむず痒くなった。我が子とは不思議なものだ。己と妻を足して、その形を小さくしたようにも見えるが、とても新鮮で、全く違った生き物にも思える。
 何ともいえない感じだった。よしよしと言って、産毛の生えた頭をなでてやりたい。そんな情が身体中から湧いた。これが煩悩というものか。

 半三郎は、すくすくと育った。
 保遠は、七津奈が身ごもった頃から、周りの者に赤子の育て方について、いろいろと尋ねていた。生まれてからは、暇さえあれば、我が子の動きや表情を見ている。
 近頃、半三郎は広い板間を這って歩くことを好んでいた。保遠は、半三郎の前に棒を置いたり、石を置いたり、滑りやすい衣を敷いたりして、それをどう乗り越えるかを試した。
 難しい壁を作れば作るほど、赤子の目は男の子らしく輝く。壁を越えた後、保遠が頭をなでてやると、嬉しくてたまらない様子で笑い声を立てた。
 保遠は、赤子には似合わないことも試みた。寝ている我が子に向かって、いろいろと難しい本を読んで聞かせるのだ。
「子守歌ならともかく、漢文や連歌などは早過ぎますわ」
 笑う七津奈に保遠は言った。
「子どもには、難しい言葉も易しい言葉も同じだ。難しいと感じる前に、あらゆるものに親しませておけば、いつか役に立つ」
 やがて、七津奈も舞い歌などを聞かせるようになった。
 倅が立って動き出すと、保遠は忍術にも馴染ませた。遊んでいる途中、急にどんでん返しの裏に隠れたり、風呂敷をかぶって姿を消したりする。これには半三郎も大喜びで、すぐに真似をし始めた。
 そんなある日、親子三人は神社へお参りに行った。石段を上がっている途中で、保遠がふと思いつき、抱いていた半三郎を下ろしてみた。すると、まだよちよち歩きの半三郎が、石段を登り始めた。笑みを浮かべながら、どんどんと這い上がる。
「いいぞ、半三郎」
 保遠は一番上まで行って待つ。七津奈は不安げに、幼子の後ろから上がってきた。
 半三郎は時々、転びかけて膝を打ったり、肘をすったりしたが、めげることはない。真っ直ぐに父を見ながら石段を登り切った。
 そして、保遠にしがみついく。
「よしよし。よくやった」
 保遠は半三郎を抱き上げ、小さな背をとんとんと叩いた。手や顔についた砂を払ってやる。柔らかい掌はすりむけ、点々と血もにじんでいたが、半三郎は父の胸にうずくまって満足げだ。
 独り身の頃は、ひたすら己の忍術修行に没頭していた保遠も、子どものおもしろさと可愛さには我を忘れた。何でもやらせ、できるまで何度でも挑戦させて見守った。
 半三郎が新しいことや難しいことをやり遂げる度、七津奈は仰天し、愉快げに笑う。その顔が見たいという気持ちも、正直なところ強かった。
 こうした調子であるから、半三郎は数えの三つか四つで木登りをし、いろはが書けるようになり、和漢の書を、意味も知らずに諳んじた。
 五歳の頃には、飯炊きから掃除まで、身の周りのことは何でもできるようになったのである。

  五

 七津奈が土間で仕事をしていると、半三郎が、ちらりと顔を見せて告げた。
「誰か来ましたよ、母上」
 間もなく、庭で大声が響いた。
「おいっ、保遠、おらんのか」
 奥の部屋で書を読んでいた保遠が、表へ回ってきた。
「ああ、駒八か。久しぶりだな」
「ああではないぞ。泰平楽もいい加減にしろ。畑ばかりちまちまと整えて……百姓の道でも極める気か」
 荒っぽい言葉を吐きながら、駒八は縁側に腰をおろした。
 保遠は土間へ向かって声をかける。
「七津奈、高山の駒八だ。茶でも頼む。何かつまむ物もあっただろう」
 言いながら、広い板間に藁座(わらざ)を出した。
「上がれ」
「では、遠慮なく」
 駒八は保遠の前に来てあぐらをかいた。そして、大きな風呂敷包みをどさりと置く。
「保遠、お前の好きそうな書物だ」
「おう、ありがたい」
 保遠は風呂敷を解き、興味津々で書を見た。
 しばらくして、七津奈が盆を手に部屋へ現れた。
「いらっしゃいまし」
 丁寧に手を突き、茶と里芋の甘煮を出す。
 駒八は軽く頭を下げると、その後ろを覗き見た。七津奈の背後には半三郎がくっついている。母の前かけの緒(お)を握りつつ、黙っていた。
「どうした、坊主。恥ずかしいのか」
 半三郎はもじもじとして、駒八と目を合わせようともしない。
「いくつになった」
 返事をしない半三郎に代わって、七津奈が言った。
「五つです」
 駒八は笑った。
「お前、五つにもなって、母の後ろに隠れておるのか」
 呆れた風に吐息をつく。
「それでも服部保遠の倅か。そんなことだから、半三郎の『半』は、『半分の半』などと言われるのだ」
「何だ、それは」
 保遠は問い返した。
「知らんのか? 半三郎は、父の強さの半分しか受け継がなかった。あとの半分は七津奈の可愛さからできている。だから女の子のようにへらへらと、いつも笑うのだと、そういう者がおる」
 駒八は話しながら、保遠を軽くにらむように見た。
「お前もお前だ。近頃は刀も帯びずに出歩いておるそうではないか。子は親を見て育つというぞ」
 七津奈は申し訳なさそうにうつむいた。その陰で、半三郎はいよいよ小さくなっている。駒八はいらつき、今にも怒り出しそうな気を発した。
 すると、
「はっはっはっ」
 保遠が大きな声で笑い出した。
「芝居だ、芝居」
 駒八は太い眉を怪訝に寄せる。
「半三郎には、知らない人が来たら幼いふりをしろと言ってある」
 保遠が半三郎に目を合わせると、五歳の子は父の横へ走ってきて端座した。
「この駒八はな、怖い男だが、悪いやつではない。いつものように振舞ってよいぞ」
 半三郎は、先ほどまでとは打って変わって堂々と構えた。余裕ありげに笑い、綺麗に指をそろえて礼をする。
「服部半三郎でございます。半三郎の『半』は、平氏の『平』から来ています。半分ではありません。どうぞ、お間違えのないように」
 ませた口調で、滞りなくしゃべった。
「その芋は、今朝の残り物ですみませんが、よろしかったらどうぞ」
 駒八は目を見開いた。
 虚を突かれたようにしばらく無言になってから、苦笑し、うなずく。
「おう、いただこう」
 保遠と七津奈は、笑いをこらえた。
 半三郎は澄まし込んで座り、その姿はやはり幼く愛らしい。
 芋をつまみ出すと、駒八はつぶやいた。
「俺は七歳で村の大人をたぶらかし、化け物といわれたが、こんな小さい子に騙されるとは……」
 今や、京の都で暗躍しているという噂が専らの大忍びが、本当に参ったという顔をする。
 ややあって、駒八はいつもの堂々たる太い声に戻って言った。
「京は荒れておるぞ」
「うむ」
 保遠も少し表情を締める。
 今の将軍は、流れ公方と称される足利義稙(よしたね)だ。室町幕府の十代将軍でありながら、幕内の実権を握り切れず、政変を起こされ、長く都をおわれていた。諸国で逃亡生活を送った末、再び将軍職に返り咲いたのである。
「保遠、お前も、幕府管領、細川高国公に仕える大谷宗次(むねつぐ)の武勇くらいは聞いておるだろう」
「もちろんだ。細川高国家の弓頭になったそうではないか」
「うむ。だが、もう弓頭ではない。先日、とうとう侍大将に任じられおった」
「それはすごい。どうりで近頃、一緒に修行をしようとも言ってこないはずだ」
「当たり前だ。宗次はもはや柘植の宗次郎ではない。皆に笑われておった小忍びではないのだ」
 駒八は得意げに述べた。
「俺は、宗次の家に下男として入り、裏をすべて取り仕切ってきた」
「なるほど」
 保遠はうなずいて、茶を舐める。
 駒八は都の情勢をいろいろと語った。保遠からは伊賀の様子を聞く。
「しかし、保遠、お前は晴耕雨読か。まるで老人だな」
 黙っていると、駒八はやや目付きを鋭くして言った。
「俺達、負けた者は、あれから血のにじむような努力をしてきた。まずは己を高めねばならない。お前に意見するのは、それからだと思った。まことの戦さで、修羅場もくぐり抜けてきた。己達の忍術が、広い世でどれくらい通用するのかも試した」
 駒八の大きな身体には、単なる野心ではない、底知れぬ気概が表れていた。
「ようやく、都でいろいろと手応えを得た。俺や宗次にここまでできたということは、保遠、お前にならばもっとできる。俺達がお膳立てをしてやるから、そろそろ都へ上れ」
 保遠は、芋の小皿を取ろうとした手を止め、考えた。
 都か──。
 都は諸国の中心で、侍が集まるだけでなく学問も盛んだ。魅力があるのは間違いない。が、今の京は、決して暮らしやすい場所とは言えない。妻子にとって、あまり良いことはないだろう。
「何を迷うておるかっ」
 駒八は吠えかかってきた。
「俺はずっとお前にものが言いたかった。だが、負けた俺が何か言うべきではない。影吉のようになってはいけない。そう思うて、これまでずっと……」
 その声には、何年も耐えに耐えてきた気持ちが滲み出ていた。
 大男の怒気に、幼い半三郎は目を見張った。びりりと背筋を伸ばしている。いつも笑っている倅が、これほど真顔で人を見据えたのは初めてだった。
 保遠も、駒八の話を軽く聞き流そうとは思わなかった。しかし、勢いに押されて応と言うのも違う。
 駒八がもっと怒り出すだろうと覚悟したが、存外にも、荒々しい男は間もなく、声色を柔らかくした。
「お前が都へ参るなら、家屋敷を都合したいと宗次が言っている。我らはいつでも待っておる」
 そう述べてから、駒八は半三郎に笑いかけた。
「この芋、うまかったぞ」
 半三郎もほほえみ返した。
「では、また来る」
 駒八はあっさりと退(ひ)き、庭から出ていった。

   六

 それから駒八は、何度も何度も家に来た。都の話をしては、帰っていくという繰り返しだ。
「先日は、公家の家来同士が町で喧嘩をしてなあ。止めに入った役人を斬ったということで、侍達が出張ってきて大変な騒ぎになった」
「そうか」
「町衆も巻き込まれ、十人近くが深手を負った。今朝になって落命した者もおる。近頃は皆、心がすさんでおるわ」
 駒八の話に、保遠は眉を寄せた。
「怪我人の手当ては行き届いていないのか」
「ああ。いい加減なもんよ。知り合いの侍が二人、この一件で刀傷を負ったのだが、医者の扱いがあまりにひどいから、見かねて宗次の屋敷に引き取った」
 半三郎は、話を聞いているのかいないのか、同じ部屋の隅で、独り黙々と手習いをしている。駒八が来ると、いつも愛想よく挨拶をするが、それだけで、あまり自ら近づこうとはしない。
 医者か──。
 保遠は心中つぶやき、庭へ目を遣った。
 服部家の庭は、あちこちに草が生え、さして美しくは見えないが、ここにはありとあらゆる薬草が植えられている。伊賀の山中に自生するものを合わせると、手に入らない薬材はないほどだった。
 しばらくして、保遠はゆっくりとうなずいた。
「お主の都の話は興味深い。いろいろと聴いておるうち、俺も京が気になってきた。どこか静かな場所に、広い屋形を建ててくれないか」
 駒八は、待っていましたという勢いで腰を上げた。
「よし。任せろ」

 屋形は間もなく手配され、保遠は親子三人で京へ移り住むことになった。
「これは立派だ」 
 半三郎の手を引いて、保遠は屋形の敷地を見渡した。半三郎は一丁前に短刀を帯びている。
「まあこれが、今の宗次と俺の力だ」
 駒八は、偉そうに顎をあげて腕を組む。
「家はほどほどで庭を広くと申したので、こんな形にしてある」
「うむ、ありがたい。あちらのほうに、いくつか小屋を建て増して、南側は薬草畑にしよう」
 保遠は喜びを隠さない。
「しかし、こんな大きな屋形を構えたら、目立つぞ」
 駒八が小声で言う。
「忍びとしては、どうかのう」
「案じるな。そこは考えてある」
 保遠は落ち着いた声で返した。
「武家に絡めると話がややこしいだろうから、寺社の権威を借りる。お寺社の慈悲で、怪我や病に苦しむ者を救う屋形を建てる、ということでどうだ」
「なるほど。お前は医者ということだな」
「うむ」
 保遠は、南都の静翁(せいおう)という名医から医術を授かった若医者という触れ込みで都へ入るつもりだ。静翁は先ごろ老衰で他界したが、生前、実際に教えを乞うたことがある。残された弟子達は、保遠の術と学識を畏怖して都行きに賛同、うまく口裏を合わせてくれることになった。
 半三郎は広い庭を走り回っている。
 母屋の屋根の具合を見に来た大工が、半三郎に声をかけた。
「元気じゃのう」
「うん」
 半三郎は胸を張って応えた。
「俺も屋根に登りたい」
「え? 危ない、危ない。やめておけ」
 大工は苦笑いをした。
「俺、怖くないよ。身体は小さいけど大丈夫。足も速いし、力だって強いんだぞ」
 半三郎の勝気な言い様に、大工は目を円めた。
 このやりとりを遠目に見て、駒八は保遠の肘をつつく。
「何だ、ありゃ? 幼いふりはやめたのか」
「ああ。引っ越したのを機に、ちょっとのびのびさせるつもりだ。逆に、そのほうが子どもらしいだろう」
「ふーん」
 駒八は口を曲げる。
「まあ、いいだろう。あまり嘘を覚えるのはよくない。他人に心を閉ざすようになっても困るからな」

   七

 京で暮らし始めた半三郎は、父からもらった短刀が気に入って、毎日、庭で振り回した。庭の木へ登ったり、保遠が植えた薬草の上を飛び越えたりして遊ぶ。
 その日はまだ早朝で、半三郎は朝飯も食べずに暴れていた。
「半三郎や」
 飯を作りながら、七津奈が声をかける。
「葱を四、五本採ってくれませんか」
「はい、母上」
 半三郎はすぐに刀を納め、活きのよい青葱を選んで採り、母のほうへ駆けた。
「ありがとう」
 七津奈は我が子の頭をなでる。
「半三郎、今朝はお客様が来ていますから、少しはおとなしくなさい」
 半三郎は、ほほえみながら縁側のほうを覗き、保遠と話す小柄な武士を見遣る。
「心配いらないよ。あの人は大丈夫なお客だって、父上が言ってたもの」
「まあ」
「今は大谷宗次様という立派なお侍だけど、もともとは伊賀の忍びで、柘植村の出なのでしょ? 母上とも昔馴染みだって」
「ええ」
 七津奈は肩の力を抜いて応えた。
 縁側では、上等な羽織を着た宗次が保遠と話をしている。宗次の衣服は灰色に近く、おおむね地味だが、かすかに光沢があり、羽織紐は品の良い赤味の浅緋色(あさひいろ)だ。側に置いた刀も拵えに彩りがあり、常のものとは違う。
 宗次は庭を眺めて言った。
「半三郎は、もう剣の振りようが様になっておるのう」
「細川家の侍大将にそう仰せいただけると、悪い気はしませんな」
「はははっ」
 宗次は、身形(みなり)に似合わぬ人懐っこい顔で笑った。
「しかし、医者とはよく考えたな。急に京の町へ上っても怪しまれず、誰とでも接することができる。さすが保遠だと、駒八も感心しておった」
「いや、万事は大谷家による取り計らいだ。宗次様様。お主の器を活かし、表に立てた駒八の知略も見事だ」
 宗次郎は苦々しげに口を歪める。
「駒八の知略か……俺はいくら出世しても、やつには頭が上がらない。辛いもんだ」
「お主が駒八の傀儡(かいらい)でないことくらい、顔を見れば分かる」
 間もなく、七津奈が温かい麦飯と味噌汁を運んできた。
「何もございませんけれど」
 大身の侍に対し、深々と頭を下げる。
「どうぞ中へ」
「おお、久しぶりだな。すっかり母の顔になりおった。若過ぎた頃より、ずっと麗しい感じがする」
「まあ──」
 七津奈は、怪しむように口元を押さえた。
「昔は、私のことを『痩せっぽっち』とか『ちりちり草』などと言っておられましたのに」
「ははっ。なずなは、振ると実がちりちりというからのう。許せ、許せ」
「宗次様は、本当にご立派になられて驚きました」
 保遠もうなずく。
 宗次は照れたように頭をかいた。
「俺ももう、子をもつ父だからな」
 男二人は部屋へ入り、胡坐をかく。
「今年、三つというたか」
「うむ。母は公家の娘ゆえ、なかなか気を遣うが」
「大変だな。そういえば、駒八はどうなのだ。浮いた話をさっぱり聞かん」
「やつは今も独り身だ。ああ見えて女にはうるさい。垢ぬけぬ女は好きになれんなどと申すし、逆に、都の女は気位が高うて鼻につくと文句を言う」
「なるほど」
「全く、己が色男とでも思うておるのか」
「はははっ」
 笑っては悪いと思いつつ、保遠は思わず声を出した。
「しかし、浮いた話がない分、仕事には常に熱く没頭しておる」
 宗次の口調が少し変わる。
「身を粉にして働くとは、あのことよ。大勢の手先を使い、大谷家が立つよう根回しや資金調達をしてくるし、出世を争う相手がいれば、その者の弱みを必ず探って参る。合戦では、兵に加わって敵を薙ぎ倒し、夜襲、奇襲もお手のもの」
「あいつはまこと、敵に回したくない男だ」
「うむ」
 二人は味噌汁をすすった。
「おぉー、うまい。これは伊賀の味噌だな」
「はい」
 七津奈がほほえみ、その瞬間、ふわりと部屋が明るくなったような気がした。ちょうど空の雲が切れ、朝陽が縁側へ差し込んでくる。
「こういう何気ない味の飯が、うちの屋敷ではなかなか食えん。上品な塩味も、毎日だと段々ものたりなくなってくる」
「お主は、食うことにだけは欲が深いからな」
「はははっ」
「うちの半三郎も驚くほど食う」
「そうか」
「伊賀の米が何よりうまいと言うて、白飯など炊けば、釜に食らいつく勢いだ」
「それはけっこう」
 宗次は、機嫌よく麦飯を頬張りながら、ふと首をひねった。
「しかし、坊主はどこへ行った?」

   八

 その時、天井板がすっと外れ、上から半三郎が舞い降りてきた。
 一瞬、宗次はぴくりと表情を変える。部屋中に緊張が走った。
 間もなく、宗次は箸を取り直して笑った。
「とんだ悪餓鬼じゃ」
 大の武士が困る様子を見て、半三郎は喜び、跳び上がった。
「やったよ、父上。俺、お侍を驚かすことができた」
 それから己の腰へ手を遣る。
「ほらほら、刀を差してても、天井裏でどこにもぶつけなかったでしょ?」
 半三郎は、短刀の鞘を自慢げに握って見せた。
 浮かれる倅に、保遠は言った。
「これ、静かにせんか。悪戯が過ぎるぞ」
 半三郎の首根っ子を捕まえ、己の脇に座らせる。しかし、子猫が親にくわえられたくらいのもので、半三郎は笑ったままだ。
「申し訳ない」
 保遠は宗次に詫びた。
「どうしても、試したい盛りなのだ」
「俺は構わん。いや……大したもんだ」
「本当ですか?」
 半三郎は、父の横からするすると離れ、宗次の近くにちょこんと座った。その愛くるしさに、宗次は思わず頬を緩める。
「坊主、もう天井裏なんぞに潜めるんだな。静かに息も消せるようだ」
「はい。息はいくらでも細くできます。止めるのも得意ですよ。水に潜って百数えられます」
「ふーん」
 宗次はおもしろそうに話を聞く。
「本当にすみません」
 七津奈は何度も頭を下げた。
 保遠はそんな妻を見てから、宗次に言う。
「七津奈は嫁いできた時、伊賀の屋敷の落とし穴にはまって泣いておったが、もう忍術にもすっかり慣れた。毎日、半三郎に襲われて参ったからな。宗次に材をもらって造ったどんでん返しなど、何千回やったかは知れん」
「そうか」
 宗次郎は、ますます情が湧いた表情で、半三郎の小さな肩に手を置く。半三郎は子猫のような黒い瞳で宗次を見上げた。
 その時、表で人の声がした。
「ごめんください」
 七津奈が腰を上げようとしたが、止めて保遠が出る。
 垣根の割れ目程度の簡素な門の前に、ぼろぼろの衣服を着た男と、七つ八つの娘が立っていた。
「あのう、この娘(こ)が風邪をひきまして、もう五日も熱が下がりません」
「顔色に生気がないな」
 保遠はすぐに父娘(おやこ)を中へ入れた。
「あの小屋へ上がるがいい」
 そう言って、自らは手水(ちょうず)で手を洗う。
 保遠は娘を莚(むしろ)の上に寝かせ、額の熱を確かめてから全身を診る。
「咳は?」
「今は止まってますが、夜にはかなり苦しそうな咳が続いておりました」
「そうか。喉は痛くないか」
 娘は小さく応えた。
「少し……痛い」
「口を開けてみろ」
 娘をよく診た後、保遠は厚めの衣をかけてやった。火鉢で湯を沸かし、薬を煎じ始める。
「あのう」
 と、父が遠慮がちに言った。
「私はちょっと仕事がありまして」
「分かった。昼間は預かろう。仕事場はどこだ」
「すぐそこの、修築中の寺で人足をしております。私の名は屋助(やすけ)と申します」
「うむ。では、帰りに寄ってくれ」
「母親がいないもんですから、すみません」
 屋助は低い姿勢を保ちながら続ける。
「それで……お薬代のほうは……?」
「今のところ、特に高価な薬を使うつもりはない」
「人足の日当で間に合うくらいでしょうか」
「いや、そんなに払って暮らしを傾けてはいかん。小銭で充分だ」
「でも、娘を預かっていただきますし……」
「子は町の宝。町の皆の役に立つような、良い子を育ててくれればそれでいい」
「本当ですか?」
 保遠はうなずき、娘に言った。
「薬を飲んだら、ここを家だと思ってゆっくり寝ていなさい。食べたいものがあったら、遠慮なく言うのだぞ」
 屋助は、額が床板にすれるほど頭を下げて帰っていった。
「保遠も、医者として町の者に受け入れられたようだな」
 麦飯をたいらげた宗次が、七津奈に言う。
「まだまだですけれど。少しずつ、噂を聞いた患者さん達が。夜も寝ずに医薬の本を読んだり、薬の調合ばかりしているので、ちょっと心配になります」
「安心しろ。やつは、ちっとやそっとで倒れる男ではない。あの厳しい術比べを制した伊賀者だからな」
「そんなに……大変な勝負だったのですか」
「ああ。俺は、こう見えても足だけは早く、駆け比べでは保遠に勝った。あの時は、死ぬかと思うほど苦しかったが、今となっては懐かしい」
 話をする宗次の横で、おとなしくしていた半三郎が、にわかに耳元でささやいた。
「ねえねえ、おじさんの家には、ご家来がたくさんいるのですか?」
「うむ、おるぞ。細川家の家来は数知れず。わしはその内の騎馬隊を三百ほど預かっておる。合戦となれば、何千もの雑兵が加わるぞ」
「へぇー、すごい。騎馬隊というのは、お馬に乗っている人でしょ?」
「そうだ」
 半三郎は目を輝かせた。
「京都の武士のお屋敷って、どんなところなのですか。お馬がいて、みんなで弓を射ていると聞きます」
「ははっ、まあそういうところだのう。今度、屋敷へ遊びに参るか」
「いいんですか?」
「ああ。ここしばらくは戦さがなさそうだから、いろいろと教えてやろう」
 半三郎は、跳ねるように腰を浮き立たせた。

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