第二章 激戦

   一

 その娘は十五で、七津奈(なづな)といった。父はなく、母はいつの頃からか伊賀に住み着いた流れ芸人だ。昔は、京で貴人の情を受けたという噂がある。
 七津奈に相応しい男を選ぶため、若い忍び達が術比べに励んでいるとも知らず、当人は、伊賀国、柘植(つげ)村のある寺にいた。
 静かな庭に小鳥が囀(さえず)る。七津奈は流行り歌を口ずさみながら、寺の廊下の拭き掃除をしていた。
「今の世までも絶えせぬものは恋といへ(え)るくせもの」
 襷(たすき)でまくり上げた袖からは、真っ直ぐに、白木の観音像のような腕が現れている。しかし、無造作に尻をあげ、裸足で床を蹴るさまは、まだ童女の姿だ。
 この身が、いったん巫女の装束をまとって舞台へ上がると、七色の香を匂い立たせる。花かと思えば野の草と化し、高嶺の雪かと見れば小川のように清く流れる。
七津奈が舞うと、村人達は老いも若きも釘づけになった。

 同じ頃、奈良では──。
「さて、次の術比べだ。今度は一人ずつ、腕に関節技を極(き)めていく。長く降参しなかった者の勝ちだ」
 古寺に集まった若い忍び達に、影吉が言った。
「闘(たたか)って、かわしてよいのですか」
 忍びの一人が問う。
「駄目だ。じっと受けてもらう」
 技をかける役は、三十前後の屈強な地侍が務めた。
 まずは一人目が、腕をねじり上げられた。肩と肘(ひじ)、手首に技が極まると、見張り役の男が手をあげ、皆に合図する。
 同時に、影吉ら大人達は突然、歌を歌い始めた。
「上忍(じょうにん)は、音なく香なく、勇名なし、その功、天地造化(てんちぞうか)のごとし」
 それは忍びの教えを説いた道歌(どうか)のようなものだった。
「七変化、都言葉はやんわりと。商人ならば、底強(そこしたた)かに。武士は寡黙に、刀は抜くな。僧は健脚、芸は儚く……」
 その時、若い忍びはたまりかねて身をひねった。しかし、掛け手の地侍は厳しく組み敷き、より深く技を極める。忍びはうめいた。
 歌は続く。
「秘するが花。遁術(とんじゅつ)に百種あり。土遁、水遁、ウズラにタヌキ、キツネ、観音、心得よ」
「参った!」
 忍びが叫ぶと、歌が止み、掛け手は技を解いた。
 次に市平が技を受けた。
 静かに目を閉じ、不動を保つ。大人達はまた同じように歌い出した。その不気味な声は、寺の堂内に響く。
「……遁術に百種あり。土遁、水遁、ウズラにタヌキ、キツネ、観音、心得よ。臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前、ひとつ加えて十字の秘術。神仏の加護、絶大なり」
 市平の肩がぐきっと音を立てた。脱臼している。だが、掛け手は技を緩めず、見張り役も黙って見ているだけだ。
「山は谷、谷は水なり、月は日で、花は実をなし、海は塩。合図、隠語を忘れるな」
 皆が注視する中、市平は動く気配を見せない。
「上忍は、音なく香なく、勇名なし……」
 歌が、再び初めに戻った。
 間もなく、みしっという小さい音が立った。
「待てっ」
 見張り役が声をかける。技の掛け手は素早く市平の腕を放した。
 市平は不満げに顔をあげる。
「指の骨が折れただろう」
 見張り役が言った。掛け手がうなずく。
「骨を痛めたら負けだ。そう決めてある」
 影吉が市平に説いた。
 市平はしぶしぶ起き上がり、外れていた肩をはめ戻して退いた。
 次々に忍び達が挑戦したが、皆、歌が終わるまでもちこたえられなかった。
 駒八の番になる。駒八は市平に鋭い眼光を飛ばした後、床に伏した。大男の駒八を相手に、掛け手が強かに腕をひねる。駒八は平然と受け、歌が流れ続けた。
「……山は谷、谷は水なり、月は日で、花は実をなし、海は塩。合図、隠語を忘れるな」
 肩は脱臼し、肘の関節も外れていたが、駒八は全く抗わない。
「上忍は、音なく香なく、勇名なし……」
 その時、手の指の骨がぐきりと鳴った。見張り役と掛け手が様子を確かめる。
「折れてはいない」
 掛け手が報じた。
「外しおった」
 駒八はそのまま、歌を二度聞き終わるまで、眉一つ動かさなかった。
「この勝負、駒八の勝ち!」
 影吉が手をあげた。
 市平は堂の隅で、折れた指に添え木をしている。駒八の勝ち誇った顔を、そっと見遣った。
 大きく頑丈なだけでなく、身体の隅々まで節が自由であるというのは、修行の賜物だ。これは苦戦となるかもしれない。

   二

 翌朝、まだ霞が漂う刻限、術比べの忍び達が、奈良の東、若草山に集まった。皆の輪の中で影吉が言った。
「今日は早駆けを競ってもらう。ここから発し、山伝いに京へ上れ。大文字山を越えて琵琶湖を望みつつ南下、甲賀を抜け、伊賀一之宮、敢国神社(あえくにじんじゃ)が終着地だ」
 道のりは、険しい山坂をおよそ二十五里(約百キロ)である。しかし、脚自慢の若い忍び達は何ともない面(つら)つきだ。
 そんな手練(てだ)れ達に、影吉は言い加えた。
「ただ走るのは容易ゆえ、整息術(ちょうそくじゅつ)も一緒に試す」
 影吉は、藍染めの麻布を取り出した。そして、近くにいた宗次郎を手で招く。影吉は宗次郎の鼻と口をその布で覆うと、頭の後ろで緒を結んだ。
 整息術とは忍びの心得の一つで、常に息を整え、音や気配を消す術だ。忍びの者は激しく動いた時でも、息を乱してはならない。 
 例えば、敵から逃げるとき、全力で走っておいて、突然、どこかに身を潜(ひそ)めることがある。この時、息を殺し、五体の動きを消せるからこそ、敵は忍びを見失い、奇術と驚くのだ。
 参戦の忍び達は、宗次郎に倣(なら)って互いに覆面(ふくめん)をつけた。駒八は鉢巻までして気合いを入れる。
 用意ができると、影吉が声をかけ、八名は一斉に走り始めた。
 一人が先頭へ飛び出す。いかにも、しなやかな足を持つ若者だ。駒八は二番手につけた。
 忍び達は皆、日本古来のいわゆる「なんば」という走り方である。手はほとんど振らず、身体もねじらず、右半身(はんしん)と左半身を交互に前へさばく。右手が出る時は、右足が出るという形だ。重心をどんどん前へ移し、足は、地を強く蹴るというより、身を運ぶという感じで回っている。
「なんば」は「難場」と書くこともあり、歩きづらい日本の山道の登り降りを、楽にするために生まれた歩法、走法だった。
市平は、できるだけ頭を空っぽにして走るよう心がけていた。頭と心の消耗こそが、最後に身体にくる。特に、焦りは禁物だ。
吸う、吐く、吐く、吸う、吐く、吸う、吸う、吐く──。
「二重息吹(ふたえいぶき)」と呼ばれる忍び独特の息使いで、一定の拍子を刻む。
 市平は今、四番手だった。しかし、先頭の忍びや駒八の姿を見ることはしない。ややうつむくくらいの格好で、顎を下げて黙々と走った。
 陽が高くなってきた。影吉の用意した麻布は、目が詰まっていて厚く、これで顔を覆って走るのはきつい。汗をかき、布が濡れてくるとなおさらだ。
 京都の東、大文字山の頂が見えてきた。そこを通ると、見張り役が手旗をあげる。       
 駒八は、険しい坂や凸凹もうまく足腰で吸収し、岩場なども跳ぶように越えていった。市平も、身体を無駄に揺らすことのない見事な走術だったが、風に乗り切ったような駒八の走りに比べると、勢いに欠けている。
しばらくして、市平の後方から宗次郎が現れた。足腰の回りが異様に早い。市平から十間(一間=一・八メートル)ほどのところにつけた。
 琵琶湖の南を走っている時、突如、先頭の忍びが倒れた。今まで鋭い足運びで躍動していた身体が、棒切れのように地へ転がる。間もなく、駒八がその横を風のごとく通り過ぎた。三番手だった忍びも抜いていく。市平も不動の眼で前だけ見据え、道を急いだ。
しかし、そのすぐ後に来た宗次郎は、足を止め、倒れた忍びの覆面を取ってやった。忍びは気を失っていた。宗次郎は気つけ薬を与え、自らも覆面の上からそれを嗅ぐ。いったん瞼を閉じ、激しく首をふって己に活を入れると、再び走り出した。
息を吹き返した忍びは、座り込んだまま、宗次郎の背をぼんやりと見送った。

  三

 先頭に立った駒八の勢いは、なお落ちない。二番手にあがった忍びは、もがくように首をふりながら懸命に走るが、どんどん引き離されていった。 
 三番の市平は調子を乱さず走っている。しかし、すでに意識は朦朧(もうろう)としていた。前の忍びが見えてくるが、追い抜きたい気持ちを抑える。
 甲賀に入った頃には、力が尽きかけていた。足が鉛のように重い。口は開き、そこに濡れた布が張り付いている。息を求める胸は、激しく膨らんで、肋骨が折れるかと思うほどだ。
 ついに二番目の忍びと並んだ。この段になって、追いつかれるのは心身にこたえる。忍びは急に失速し、瞬く間に、市平のはるか後方へと消えていった。
 代わって、宗次郎が市平に迫ってきた。苦しい顔だが、足腰の動きは確かだ。
 駒八、市平、宗次郎──この順が変わらないまま、三人は伊賀へ至った。更に走り、一之宮が近くなってくる。
 その時、前方で大きな叫び声が響いた。駒八だ。駒八は敢国神社を目前にして、突然、我慢の糸が切れたように苦悶し始めていた。
 だが、足は緩めない。奇声を発しつつ、そのまま突っ走る。
 神社では、影吉らが待っていた。そこへ、決死の形相で駒八が走り込んできた。
「一番、駒八!」
 鳥居をくぐった途端、駒八は膝を折り、覆面を投げ捨てた。
 続いて、市平が神社へ近づく。わずか一間ほどの差で宗次郎が追っていた。宗次郎は小さな身体で、膝を抜き、前へ倒れるようにして一気に加速する。鳥居の数間手前で、ついに市平と並んだ。
 二人は最後の力をふりしぼる。
 鳥居の柱の下で、目をこらしていた影吉が手をあげた。
「二着、宗次郎。三着、市平」
 覆面を外した宗次郎は、そのまま前へ進むと、近くの木に抱きつき、だらりと身を崩す。
 市平はふらふらと歩きながら、覆面を顎へずらし、天を仰いだ。

   四

「次は変装の術比べだ。皆、思い思いの姿で市中へ出ろ。我らが町に散らばり、お前達を捜す。一日中、歩き回って、誰にも正体を見破られなかった者の勝ちじゃ」
 術比べの一行は、奈良の町へ戻っていた。
 若い忍び達はお題を聞くや、方々へ姿をくらました。いずれも伊賀で勝ち抜いた術者だけに、なかなか見つからない。
 昼頃、宗次郎は旅の商人に扮(ふん)して町を歩いていた。若さは目立つものの、この時代、子どもでも十二、三になれば、ほとんどの者が働きに出るから、特に気にする人もない。
 一刻(約二時間)ほどすると、今度は石屋の人足に化けて、せっせと働いた。
 中には、年老いた物乞いになり、莚(むしろ)を抱えてよれよれ歩く忍びもいた。
 町の一角に、影吉が通りかかった。辺りは人気(ひとけ)がまばらで、品のよい町家が並んでいる。壮年らしき僧侶が一人立ち、笠を目深にかぶって経文を唱えていた。読経の声が見事だ。恰幅をよく見せ、顔に皺(しわ)なども加えて趣きを変えているが、僧は駒八であった。
 影吉は、この僧が気になったと見え、駒八の前で手を合わせると、小銭を喜捨する。僧の顔をちらりとのぞき上げるが、ちょうどその拍子に、駒八は目を閉じ、ありがたそうに合掌して頭を下げた。
 駒八の仕草は若者離れしており、いかにも自然だ。影吉はそのまま僧から離れた。
 夕暮れ時になった。昼間のにぎわいは去り、町は静まりつつある。遠くで烏が鳴き、子ども達は家へと走った。そんな頃、忍び達が集まる寺の屋根に、白い布が掲げられた。
 日没の町からそれを見上げた駒八は、網代笠(あじろがさ)の下でにやりと笑った。
 間もなく、駒八が寺へ戻ると、影吉達に加え、正体のばれた忍び達が、薄暗い板間に並んでいた。その顔ぶれを見て、駒八は口を歪める。
「ちぇっ、市平はまだか」
「うむ。しかし、駒八、お前も見事だ」
 と、影吉が感心したように言う。
「一体、どんな身分に扮していたのだ」
「坊主ですよ。一度、顔をのぞかれた時には、もう駄目かと思いましたがね」
「何──」
 影吉は考える表情になり、
「そうか、あの時!」
 悔しそうに、それでいて、どこか楽しげにうなずいた。
「参ったのう」
「駒八は大人だからな」
 傍らにいた宗次郎が口を開いた。
「お前は見つかったのか」
 駒八がきく。
「うん。人通りが減ってくると、何だか不安になって。少しでもそわそわしてたら、すぐにばれるな。もっと心を鍛えないと」
 宗次郎は歯切れの悪い声で話す。
 その時、駒八が戸口を振り返った。
「おおっ、市平、遅いぞ」
 若い忍び達は、市平へ畏怖の眼差しを向ける。
「ああ、すまん。今、白旗に気づいたんだ」
 市平はいつもの穏やかな物腰だ。
 影吉が声をあげた。
「変装の術、勝ちは駒八、市平!」
 他の忍び達は、二人に拍手した。
「ここまでは、市平と駒八が三勝ずつ。いい勝負になってきた」
 大人達はおもしろそうに腕を組んだ。

   五

 その夜、市平が寺の庭で、銀杏(いちょう)の木越しに月を眺めていると、宗次郎が声をかけてきた。
「市平、お前は何者に化けていたんだ?」
 市平は宗次郎が来たのに気づいており、横顔で静かに応える。
「坊主だ」
「駒八と同じか」
 宗次郎は夜空を仰いだ。
「うむ。この町には坊主が多いからな」
「俺も考えたんだが、読経がどうも苦手なんだ」
「俺はありふれた背格好だから、人にまぎれやすい」
 市平は冷静に振り返った。
「それだけじゃないだろう」
 小柄な宗次郎は、市平の表情を探るようにじっと見上げる。
 もちろんだ、と、市平は内心つぶやいていた。寺には何度ももぐり込んで、僧侶の仕事や暮らしぶりを見た。僧達が集まって読経する時には、床下で一緒に唱え、声を張っても気づかれないまでに稽古した。
 しかし、宗次郎は、若い手練れ者には珍しい型の男だ。何が得意で何が苦手かをはっきりと弁(わきま)えており、しかもそれを隠さない。こういう者は、修行次第でどんどん技を高められると、ものの本に書いてあった。
「術比べが終わったら、一緒に稽古をするか」
 市平は誘ってみた。
「読経の『こつ』くらい、宗次郎ならすぐにつかめる」
「本当か?」
 宗次郎はほほえんだ。
「市平が教えてくれるのか」
「ああ」
「優しいんだな」
 そう言ってから、間もなく、宗次郎はぞっとした風にぶるぶると身を揺すった。
「くわばら、くわばら。お前のその優しそうな顔には、どうも裏があるような気がする。もしかして、俺をうまく仲間に引き込んで、手先として使うつもりか」
「そんなおこがましいことは考えていない」
「じゃあ、何だ」
「お前と修行をしたら、おもしろそうだと思っただけだ。嫌なら別にいい」
 その時、庭に駒八が現れた。
「抜け駆けはやめろよ」
 市平と宗次郎は、駒八を振り返った。
「俺も一緒に稽古させろ」
 宗次郎は市平の顔色をうかがう。
 市平は、嫌な気分になっていた。話を聞かれていたとは迂闊(うかつ)だ。駒八の修行を見てみたいという気持ちはある。が、術比べが終わってまで、こんなやつと一緒にいたくはない。
「考えておくよ」
 市平は冷たく言い捨てた。
「何だと?」
 駒八は目を尖らせ、市平の胸倉をつかむ。
「放せよ」
 市平は無表情に言った。
 駒八は、人に上からものを言われたことがないらしく、頭にきているのが見て取れた。拳を握り締め、今にも殴りかかろうとしている。
 だが、駒八は振り上げた手を止めた。術比べの最中、ささいなことでかっとなって喧嘩などすれば、忍びの格が疑われる。
 駒八は動かず、無言の気合いだけで市平を圧してきた。その熱さと眼力は凄まじい。市平は身がすくみそうになった。しかし、恐れにとらわれないのも、忍びの大事な心得だ。市平は一寸も引かず、目もそらさない。
「ま、まあ──」
 と、宗次郎が小さく割って入った。
「皆で仲よくやればいいじゃないか」
 絶妙の瞬間をとらえられ、二人は力が抜けた。どちらからともなく間合をとって離れる。
 宗次郎は静かに息をついた。

   六

 七津奈は寺の庫裏の土間で鉢を抱え、一心に胡麻をすっていた。そこへ、部屋のほうから三十半ばの女が現れたが、気づかない。
 しばらくして、
「ああ、母様(かあさま)」
 ようやく顔を上げた七津奈は、すり鉢を置いた。
「七津奈、ちょっと話があるから、そこへおかけなさい」
 母は上がり口を目で指し、自らは板間に座った。七津奈は柳模様の前かけで手をふき、腰をおろす。
「改まって、急に何ぁに?」
「あなたもそろそろ年ごろですね」
 母は落ち着いた声で言った。
「実は、良い縁談がきています」 
 七津奈は驚いた様子で、ぽかんと口を開けた。薄桃色の唇はかすかに潤み、まるで柔らかな綿花(わたばな)が開いたようだ。
「どこの村のお人ですか」
「伊賀で一番の若者です」
「え?」
「そなたの舞いが当代一と評判なので、それにふさわしい殿御(とのご)を皆が選んでくださるのですよ」
 母は誇らしげに説いた。
「きっと家は大きくなり、豊かな暮らしができるでしょう」
 しかし、七津奈の表情は冴えない。
「どうしたのです」
「私……」
 七津奈はためらい混じりに応えた。
「そんな立派なお人は困るわ」
「…………」
「私の夢は、伊賀で小さな畑をもって、毎日、二人で野良仕事をしながら楽しく暮らすことなの。春と夏、それに秋のお祭りでは、みんなで神楽を舞うの。狂言師も呼んで、村中の人達が大笑い」
 七津奈はその様を思い浮かべるように、うっすらと目を閉じる。
 母は苦笑した。
「そなたの望みをかなえてあげたいけれど……神様のお告げには、逆らえないわ」
 神様と聞いて、七津奈は目を見開いた。
「そなたは、伊賀で一番の殿御と一緒になって、その人の子を産むようにと、ご神託が下されたのです」
 七津奈は身を固め、わずかに震えた。何か目に見えない鋭いものが、身の芯へ走り降りたかのようだ。
 古くから、若い巫女は村々の習わしで、大きな役目を負わされてきた。中には、儀式の際に人柱として生き埋めにされた童女もいる。村人皆のために、誰かを生け贄(にえ)にするのだ。
 そんな話に比べれば、七津奈は果報者といえた。
「私が神様のお告げに従えば、みんなが幸せになるの?」
「ええ、そうよ」
 七津奈はうつむき、前かけを握り締めた。
 母は若い娘に膝を寄せ、肩を抱く。
「急な話で驚いたのね。そなたなら大丈夫。誰にでも好かれ、可愛がられて幸せになれます」

   七

 術比べの若者達は伊賀へ戻って、神社の寄り合い広間に控えていた。今日はからりと晴れて、外は明るい。
 庭にぎいぎいと妙な物音がした。皆が見ると、大人達が荷車を引いてくる。
「随分、重そうだなあ」
 宗次郎が窓から表へ首をつき出した。
 荷を覆っていた布が外される。そこには書物が山のように積まれていた。
「この本を、日暮れまでにどれだけ読み、中身を憶えられるか。それが次のお題だ」
 影吉が皆に告げた。
「日暮後、伊賀一の本読み老人に来てもらい、問答を行なう」
 八人皆に文机が与えられ、横には書物が高々と積み上げられる。
「始めっ」
 号令とともに、若い忍び達は書を読みあさった。
 駒八が和綴じ本を順調に繰る。三冊ほど目を通すと、大の字になってその場に寝た。目を閉じ、中身を憶え込んでいる顔だ。
 その頃、市平はもう背後に二十冊ほど、読み終えた本を積んでいた。机上に開いた書物は、三つ数えるほどの間に一面ずつめくっている。
 日が暮れるまで、市平の早さは衰えなかった。
「やめっ」
 影吉が声をかけ、白い髭を生やした古老が、寄り合い広間へやってきた。
 古老は、若い忍び一人一人から、読み終えたという本を受け取り、中身について尋ねた。たくさん読んだが、記憶が曖昧な者、よく頭には入っているが、冊数が少ない者、たいていはそのどちらかだった。
 駒八は三十八冊、読了した。その中から、古老は薬学の本を手に取り、問いかける。
「米に代えてハト麦を食すと、どのような効用があるか」
「腸の通じがようなります」
「うむ」
 古老は、また別の書物を開いた。
「目のつぼとして『晴明(せいめい)』『瞳子(どうし)りょう』『さん竹(ちく)』が知られるが、他に七箇所あり。どこか指し示せ」
 駒八は、まず両眉の下を指し、こめかみ、耳たぶ、耳の裏、顎の下側の左右を示したが、すべては答えられなかった。
 古老は頬骨の下際や、後頭部の首に近いあたり、それから手の親指と人差し指の又を差した。駒八は悔しそうにうなずく。
 駒八の問答が終わると、市平の番になった。百七十冊の本が、古老のもとへ運ばれた。その一冊を開く。
「居(きょ)は地を善(よ)しとし、心は淵(ふち)を善しとす。では、与(まじわ)るは何を善しとするか」
「与るは仁を善しとします」
 市平は半眼で静かに応えた。
 何冊試しても滞りのない市平に、古老は満足げな顔だ。そして、次の本を手にした。
「兵法について。身は深く与え、太刀は浅く残して、心はいつも懸(か)かりにて在り。そう述べた流儀は何か」
「鹿島新当流です」
 市平は読んだ本の大意をすべて覚えており、細かいところもかなり記憶していた。
「天才だぁ」
 宗次郎は、わくわくしたような声でつぶやく。
「これが上忍というやつか」
 上忍とは、身分の高い忍びのことと思われがちだが、実際には、忍術の達人、真の上手を指す言葉といわれる。早く走ったり、敵中に忍び込むのも、もちろん優れた術だが、知力があれば、深遠な謀をめぐらし、大きな働きができる。書物にはその手がかりが無数にあった。
 感激して見せる宗次郎も、四十冊を読み、ほとんどの問いに間違いなく答えていた。
 一番が市平、二番が宗次郎、駒八は三番となった。
 皆が書物を片づけ始めと、影吉が言った。
「明日は、いろいろなものに化けてもらう。ただし、変装ではない」
 若い忍び達は顔を見合わせた。


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