第五章 医者と侍

   一

 保遠は忙しくなった。泊まりの患者も増えて、七津奈も手伝いのため働き詰めとなる。
 伊賀から、保遠の才を慕って上洛してくる忍び達がいたが、彼らも皆、医者の手伝いや資金集めに明け暮れた。忍術者として合戦に参じ、京で一旗あげるといったことはない。伊賀者達が世の情勢や戦さの話などを聴き込んで来ても、保遠は動かなかった。
 京の屋形はあくまでも仮の家だ。伊賀の服部屋敷はそのまま残してある。保遠は得意の走術で、都と国を頻繁に往復した。それでも服部家は医者として京の町に馴染み、住み着いていった。
 九歳になった半三郎は、忍びの勇猛さを隠し切れない男子に成長している。近所でも評判の暴れ者だ。
 わんぱくな子ども達を取り仕切り、空き地や河原、野原などに出かけて合戦ごっこを行なう。悪餓鬼達はもともとこうした遊びを好んでいたが、半三郎が大将になると一味違った。
 ただ棒などを振り回して剣術ごっこをし、侍の真似をするだけでなく、長い槍を使ったり、竹籤(たけひご)で造った小さな矢まで用いる。陣地には穴を掘り、土塁を築いた。半三郎の組の者は、攻めたり退いたり、命令どおり巧みに動いた。
 餓鬼大将は、遊びほうけているだけではなかった。家の仕事も熱心にこなす。忙しい時には、町から男の子や女の子を集めてきて、保遠と七津奈を手伝わせた。
「薬草には、干してから煎じ薬にするものと、そのまま使うものがある」
 半三郎は、十一歳になる手伝いの娘に説いた。
「この草は摘み立てがいいんだから、先生が採ってこいというまで採っちゃ駄目だ」
「そうなの……?」
 娘は、迷うような顔で草を見る。
「葉の形をよく見ろって言っただろ。絵を描いた書も見せてやったじゃないか」
「そうだったかしら」
「忘れたのか? ちょうど一月前だ。お前は何でもすぐに忘れるな」
 いらついた半三郎は言い放った。
「馬鹿っ」
 娘は泣き出す。
 すると、近くの小屋にいた保遠が仕事の手を止め、庭へ出た。
「半三郎っ」
 常とは違う鋭い声だ。
「馬鹿とは何だ」
 眉を上げて咎める父に、半三郎は応えた。
「だって……馬鹿なんだもの」
 次の瞬間──。
 半三郎の小さな頬へ何かが飛んだ。ぴしゃりと音が鳴る。保遠の平手打ちだ。半三郎の身体は地へ叩きつけられた。
 目の前にいた娘は何が起きたか分からず、瞳を見開いて息を飲む。
 保遠は倅をにらみ、低い声で言った。
「今度、誰かに馬鹿と言うたら、ただではおかんぞ」
 半三郎の頬はみるみる腫れあがった。
「この世には、馬鹿な人間などおらん。それぞれに役割があるのだ。お前が毎日、偉そうにしていられるのは、皆が優しく許してくれるからだ。お前ももっと寛い心をもて」
 保遠は世の道理と己の信念を説く。
「人と話すには礼儀をわきまえろ。目上の者に、馬鹿などと……以ての外だ」
 保遠は吐き捨てた。
 傍らでびっくりしていた娘が、恐る恐る口を開く。
「先生……ぼっちゃんをあまり叱らないで。私が悪いの。まだ採っちゃいけない薬草を摘んじゃったから」
 保遠は娘の頭を静かになでた。
「いいんだ。医者でもない子に薬を採れなどと言った半三郎が悪い。これは食える草だから、後で粥にでも入れよう」
 娘はほっと眉を下げた。
「じゃあ、この薬草、無駄にはならないんですね」
「うむ」

 その後──。
 保遠は半三郎に対して厳しくなった。口の利き方などにもうるさくなったが、忍術の修行も過酷になり始める。
 手と指を鉄のように鍛えるため、石や砂をひたすら打ち叩く。床下に伏せたまま、一日中、動かずにいる。突然、全身を縄で縛り上げられ、山中に放置され、己の力で帰ってくる、など……。
 いずれも忍びにとっては大事な修行だが、これらを通じ、耐え難い苦痛や不条理を、黙って忍ぶ心を養うのだ。
 過酷な修行は、常人離れした術を生む。本物の忍びに近づく半三郎に対し、保遠は己の才を隠すよう命じた。知恵や奇術をひけらかしてはならない。外で遊ぶとき、忍術を用いることも厳禁とした。
 二年ほどで、半三郎は忍耐強く、父に従順で、礼儀正しい子へと変わった。

   二

 町で半三郎が、餓鬼大将として君臨することはなくなった。
 十一歳の半三郎は、おとなしく患者に粥を配る。 
「昨日から腹をこわして、具合が悪いんだ」
 年老いて痩せた病人が、臥したまま言った。
「そうか」
 半三郎は盆を置き、老人の傍らに座る。
「ずっと寝てるからな。血の巡りが悪いだろうし、身体も冷えているんだろう」
 そう言って、腹をさすった。
「うーむ。まあ、温かい粥でも食ってれば治るんじゃないか」
 半三郎は老人の脚を取り、足裏のつぼを探り始めた。腸に効くところを押す。
「少し凝ってるみたいだ」
 老人は悲しげな声でこぼした。
「いくら飯をもらっても、身につかないようだ。もったいない……」
「何を言ってるんだ」
 半三郎はほほえんだ。
「腹を下してたって、食ったものは身につくんだぞ。人の腹っていうのは賢いもんで、身体にとって毒になるものだけを出す。腹を下しまくって、病が治った人だっているぞ」
「え? 本当か」
「ああ」
 仰天する老人の足に衣をかけると、半三郎は腹をぽんぽんと叩いた。
「安心しろ」
 半三郎はいったん去って、温め直した粥を持ってくる。
 器を渡すと、老人はゆっくりと食べ始めた。
「うまい」
 それを見た隣の患者が、手を伸ばしてきた。
「俺にも早くくれ」
 半三郎は笑って粥を差し出す。
 そんな倅の様子を、保遠は少し離れたところで見ていた。
 粥を配り終え、しばらく経つと、半三郎が父のほうへ来た。
「あのう」
「どうした」
 保遠は、腰が痛いという患者の身体をもみつつ応じる。
「さっきから、門のところに侍が立っています。また、あの嫌な役人です」
 半三郎は小声で告げた。
 保遠は黙って奥の部屋へ行くと、金箱から銭を取り出した。その銭を懐紙に包みながら戻る。
「これを渡してお帰りいただけ」
 半三郎は不満げな面(つら)で動かない。
「早うせい」
 父に促され、半三郎は門へ走った。
 侍の前へ行くと、一礼し、愛想よく声をかける。
「こんにちは。お見廻りですか」
「うむ」
 役人はじろじろと中を見た。
「相変わらず混んでおるな。近頃、医者は大流行りゆえ、よう儲けておるのであろう」
「いえ……薬代や食べ物代で、けっこう大変なのでございます」
「ははっ」
 役人は笑った。
「子どものくせに、商人のような口を叩きおる。親から、そう言うて追い返せといわれたのじゃな」
 半三郎は慌てて首を横に振り、役人に向けてそっと紙の包みを差し出す。受け取った侍は、銭の重みを手で量った。
「うーむ。商人ならば、もっと心あるものを出して参るがのう」
 半三郎は頭を下げた。
「これでどうかお許しください」
 侍は半三郎を小突く。
「餓鬼の使いでは間に合わん。主(あるじ)を呼べ」
「すみません。父は患者の世話をしております」
 侍は不機嫌になり、声を大きくした。
「ほう? 我らお上の者より、患者が大事か。誰のおかげでこの屋形が無事に守られておると思う。日々、我らが命がけで都を見廻っておるからではないのか」
 半三郎は低く顔を伏せたまま、目では侍をにらみ上げていた。怒りで肩と腕がぴくりとし、今にも動き出しそうだ。
 その時──。
 幼い手を、さっと握り止める大きな手があった。
「父上……」
 半三郎は顔をあげて保遠を見る。
 保遠は半三郎をぐっと後ろへ引き退(さ)げた。同時に、侍へ向かって深く頭を垂れる。
「貧乏医者にて、ご無礼をいたしました」
 それから、小さな薬袋を侍に見せた。
「これは、傷によく効く塗り薬です。南都の名医に学んだ秘薬でございます」
「何」
 侍は少し興味をもった様子だ。
「どうかこれで、お気をお収めください」
 侍は保遠の顔をじろりと見る。薬を手に取り、懐へ入れたが、去る気配はない。
「秘薬とは大層な。お前は名医の学を受け継いだ弟子と自称しておるらしいのう。その若さでおこがましい」
 言いながら、侍は保遠の襟元をつかんだ。
「俺は、よそ者がこの町で幅を利かすのが我慢ならん。医者風情が、先生、先生と呼ばれて何様のつもりだ」
 応えない保遠に対し、役人は突然、蹴りを入れた。腹だ。保遠は身を丸めるが、襟を取られていて後ろへは引けない。侍は足も蹴ってきた。
「お……お許しください」
 保遠は座り込んだ。
「ははっ、貧弱な医者め」
 言い捨てて、侍は門から出ていった。

 役人は服部家の屋形を離れ、賑やかな町へ出た。見廻りというほどの気構えもなく、うろうろと歩く。
 近頃は大きな合戦がないので、町の者が通りへ出て商売などをしていた。
 すると、前から小汚い格好の男の子が、何かに追われるような血相で駆けてきた。役人はうっとうしそうに眉を寄せる。その子は無言で役人とすれ違い、人混みをかき分け、走り去った。
 役人は、その子の来たほうを見たが、誰も追っては来ない。ふと首をかしげて懐を探る。
「あっ……」
 間抜けな声を発した後、役人は激しい怒りを表した。
「くそっ」
 暴れ出した役人は、近くの出店に並んでいた品々を滅茶苦茶にした。

   三

 服部家では、患者の世話を続ける保遠の耳に、じゃらりと妙な音が聞こえた。奥のほうからだ。
 見にいくと、金箱の前に大胡座(おおあぐら)をかいた半三郎がいる。
「お前……」
「あんな役人を、のさばらせておいてはいけません」
 半三郎は胸を張り、銭を戻したらしい金箱を掌で叩く。
「うまく化けましたから、正体は知られていません」
 得意げに報じ、自らの懐へ手を入れた。
「これも、あんなやつにやるのはもったいない」
 小さな手には、秘薬の袋があった。
 半三郎は興奮している様子だ。
 何と凛々しい姿か──。
 しかも可愛げがある。勝ち誇った倅は、絵に描いたような正義の味方であり、賛美すべき童子に見えた。
 保遠は、笑みをこぼしそうになった。
 倅の成長が嬉しい。七津奈の腕の中に小さくおさまっていた赤子が、歩き出し、走り出し、少しずつ忍術を覚えてここまでになった。
 だが、保遠はあえて無表情を保った。煩悩に負けてはいけない。
 保遠は冷淡に言い放った。
「お上を相手に忍術で勝負をするなど、愚かしい」
「…………」
「短慮と申すはこのこと。今日はまんまとあの役人を懲らしめたつもりでも、後々どうなるかは分からんぞ」
 小さな吐息をつき、保遠は続ける。
「あの侍は怒りやすく乱暴な男だ。せっかくせしめた金や薬を盗られれば、腹を立て、他の者に八つ当たりをするか、服部家につながる者の仕業と考え、報復してくるか……。何が起こるか測り難い。お上を甘く見るな」
「でも……」
 半三郎は顎を引き、上目使いで訴える。
「弱い者をいじめてはいけないと、父上はいつも言っておられます」
「俺は弱い者ではない」
 保遠は倅の言を、あっさりと退けた。
「俺は、殴られようが蹴られようが平気だ。患者や女、幼い子などがいじめられたわけではあるまい。役人に逆らい、にらまれれば、医者の仕事ができなくなる。結局、災いを被るのは多くの弱い者達だ」
 半三郎は少しずつ考える顔になった。
「忍びが心に留めるべき七情とは何だ」
 保遠は問いかける。
「喜怒哀楽愛悪欲」
「うむ。これを知り、己の心、情を制することが大事だ。お前は役人を嫌悪し、怒りに任せて反撃した。義憤だったと言いたいだろうが、それは浅い。正義のためと思うても、真の勇者は安易に敵を作らぬもの。負けるが勝ちだ」
 高尚な理を突きつけられ、半三郎は何も言えずにうつむいた。
「俺は役人に虐げられたのではない。相手の七情を見た上で、怒りを発散させ、欲を満たして帰らせた。そうしておけば、あの役人が服部家を敵視するようなことはない。これが忍術だ」
 丁寧に言い含め、保遠は、落ち込んだ倅の肩をとんと叩いた。
「今は辛うても、忍べ。何がまことに世のためになるか、重々、考えるのだ」

 この一件以来、半三郎はますます優れた分別を発揮し、何事にも忍の一字で対するようになった。
 しかし──。
 当人の内心は深く傷つき、翳が生じたように胸がふさいでいた。
 半三郎は、立派な忍びになるために、毎日毎日、我慢をし、己の術を隠しながら、ひたすら修行を重ねてきた。役人に対抗しようとしたのは、いけないことかもしれないが、服部家の者とばれないよう、しっかり用心をし、真剣に立ち向かったつもりだ。
 父が足蹴にされて悔しかった。このまま放っておけば、役人が調子に乗って、また金や薬をせびりに来ると思った。
 町の人混みで役人に迫った時は、どきどきし、何ともいえない心地だった。相手は本物の侍だ。ただ怒りに任せて、乱暴に動いていたわけではない。とても集中し、心が研ぎ澄まされていたと思う。
 事を成して逃げ去った時には、今まで鍛えてきた足が面白いようによく回った。これが忍術かと、我ながら感心した。すべてが報われたと思った。苦しい修行の果てには、このような世界があったのだ。
 しかし、己は要らないことをして、父の忍術を台無しにしてしまったのか。
 父の言うことは正しいのだろうが、よく分からない。
 なぜ悪人をのさばらせておくのか。
 いろいろと考えるうち、半三郎は鬱々とし始めた。
 俺は愚かで、世のため人のためにはならない忍びなのかな──。
 自らが本当に駄目な者のように感じ、半三郎は悲しくなった。
 悲しくなるのも、いけないのかな。
 喜怒哀楽愛悪欲……七情を制するなんて、とても無理だ。
 半三郎は、父の前で怒ることも笑うことも、めっきり減った。素直に心を表わすことができない。
 息が抜けるのは、母、七津奈の前だけだ。七津奈は保遠と違い、相変わらず大らかで温かい。
「父上は、そなたに期待しているから厳しいことをおっしゃるのですよ。半三郎は半三郎なりに、良いところをたくさん持っています。私にとっては自慢の子です」
 忍術のことなど忘れ、母とだけ話をしていたい。しかし、母に甘えるのも子どものようで嫌だった。父にまた、情に負けたと見下されたら堪らない。
 悪い役人のことなど、もうどうでもよくなった。 
 半三郎にとって、落ち着けて楽しかった家が、今は息苦しく、暗い場所になりつつある。そのことが最も耐え難かった。
 半三郎は服部家を離れ、出歩くことが多くなった。

   四

 更に二年が経った──。
 半三郎は、大谷宗次の家に入り浸るようになっていた。
 今日は、宗次の嫡男(ちゃくなん)、大谷彦光(ひこみつ)と武芸の稽古をしている。半三郎は十三歳で、彦光は二つ年下だ。
「この矢羽根(やばね)は綺麗だろう」
 彦光は、ぼかし模様のような矢羽根を見せた。
「はい。艶もあって見事ですねぇ」
 半三郎は見入りながら、問いかける。
「犬鷲(いぬわし)の羽根の『開き』ですか?」
 鳥の羽は、軸から広く生えている側と、羽幅の狭い側とがあり、この広い側を「開き」と呼ぶ。「開き」を用いた矢羽根は、柔らかい弓で射るのに適しているといわれる。まだ幼く、強い弓が引けない若様のために、宗次の知人が贈ったものだ。
 彦光は、半三郎から見ると弟のように可愛いが、身分は大違いであった。医者の子に過ぎない半三郎は、こうして一緒に過ごしてもらえるだけでも、極めて光栄なことなのだ。
 早速、彦光は立派な羽根のついた矢を、的へ向かって射た。
 しかし、大きく外れる。
「駄目だ」
 彦光は残念そうに言った。
「とって来てくれ」
「はい」
 半三郎はすぐに走って行き、矢を拾った。
 戻ってくると、考える顔で矢を凝視する。それから矢の両端を持ち、膝でぐっと押したわめた。
「どうしたのだ」
「いえ──」
 半三郎は急いで彦光に矢を返す。
「これでもう一度、試してみてください」
 訝るように弓を取った彦光が再び射る。
 すると、今度は真っ直ぐに的へ飛んだ。
「矢が曲がっていたのか?」
「はい、おそらく」
 彦光は矢を見ながら唇を尖らせる。
「がっかりだな。これほど立派な羽根をつけたのに、肝心な矢が、いい加減な造りだったとは」
「……そうですねぇ」
 半三郎は眉尻を下げる。 
 彦光は、半三郎のほうへ弓を押しつけてきた。
「気分が乗らなくなった。弓の稽古はまたにしよう」
 片づけろということらしい。
「もうおしまいですか」
 半三郎は残念な気持ちを隠せなかった。
 今、始めたばかりなのに──。
「稽古したいなら、半三郎だけすればいい。弓を貸してやる」
 覇気のない表情で、彦光は言った。
 弓を受け取ったものの、半三郎は動かなかった。彦光が機嫌を損ねているのに、己だけ稽古をするわけにもいかない。
「どうした、半三郎」
「いえ……」
「遠慮するな。私は毎日、嫌というほど弓の稽古をさせられているのだ」
 彦光は歳に似合わぬ、くたびれた感じの息をついた。
「本当は、新しい矢羽根を見せたかっただけで、初めからあまりやる気はなかった」
「そうですか……」
 半三郎はうつむく。
 今日も、先ほどまで剣術をやり、ついつい熱を入れたから、疲れてしまったのかもしれない。
「お侍は大変ですね。たまには、武芸のことなど忘れて遊びましょう」
 そう言って、ほほえんだ。
「しかし、半三郎は弓を射たいのだろう?」
「…………」
「正直に言え。私に嘘をつくのか」
「いいえ。弓は……射たいです」
 彦光は一瞬、嫌な顔をしたが、間もなく吹っ切ったように明るい面持ちになり、半三郎の前に矢箱を押し出した。
「なら、稽古しろ」
「よろしいのですか」
「うむ。弓を射ようと誘ったのは私だ。一度、喜ばせておいて、やめるのは可哀想だ。武士に二言があってはならぬからな」
「彦光様……」
 彦光は朗らかに笑った。
「今日は半三郎の日だ。好きなだけ射てみろ」
 半三郎は嬉しくて、楽しみで、心が弾んだ。
 彦光に深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
 機嫌を直した彦光は、部屋へ入り、先ほどから双六遊びをしている女達の中へ加わった。従妹に当たる公家の娘や侍女達が、賑やかに集まっている。
 庭に残った半三郎は、侍のように勇ましい立ち姿になった。
 目の前には立派な矢箱がある。この中の矢を独りで使い放題とは夢のようだ。
 いざ──。
 背筋を伸ばして弓を引く。
 矢を放つと、勢いよく飛んだ。的へ中る。至極好い気分だ。
 半三郎はどんどん続けて射た。刺さった矢を抜き集めては、また放つ。
 小さい頃から、山中などで手造りの半弓をよく射ていたが、大身の武士が使う弓は上等で、随分、趣きが違った。武家の弓を扱うための手の内や作法など、細かいことは宗次が教えてくれた。
 彦光の弓はやや小ぶりだが、大人用のものとあまり変わらぬ造りで、独特のしなやかさがあり、装飾も素晴らしかった。
 ついつい夢中になる。
 日が暮れるまで射続けて、半三郎は我に返った。
 彦光は退屈そうに本を読んでいる。女達はもういなくなっていた。音がやんだのに気づき、彦光はゆっくりと顔を上げた。
「やっと済んだのか」
「はい」
 半三郎は素早く矢を片づけ、弓の手入れをした。
 その様を眺めつつ、彦光がつぶやいた。
「半三郎が侍だったらよかったのになあ」
「…………」
 半三郎は、どう応じてよいか分からず、困った顔になる。
 辺りの風景はほの赤く染まり、西の空には夕焼け雲と幾羽かの烏が飛んでいた。
 彦光は書を閉じ、寝転んで手足を伸ばした。
「ああ、今日は楽な一日だった。大人達が留守というのは、いいなあ」
 その時──。
「あっ」
 と、半三郎は声をあげた。
「お母君のお迎えに参る刻限でした」
 急いで弓を片づける。庭にひざまずいて彦光に一礼すると、門のほうへ駆け出した。
 彦光の母は公家の女だ。町へ出たり、実家へ帰ったりする時、輿(こし)に乗る。半三郎はもう十五歳だと偽って、その担ぎ手を買って出ていた。
 大谷家には世話になり通しだから、できるだけ雑事などを手伝い、役に立ちたいと思った。

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