第三章 逸る者

   一

 術比べの一同は、伊賀国の南、名張(なばり)の森へ分け入り、次のお題が出されるのを待っていた。市平は木にもたれ、静かに瞼を下ろして風の音を聞く。
 本読みは得意であり、そこで一歩、駒八を上回れたのは幸運だったと思う。読み書き、学問は、幼い頃から徹底してやっている。
 駒八はあれから、口もきいてこない。しかし、黙っていても何となく周囲の者が落ち着かなくなるくらい、気にかかる男だった。市平はできるだけ駒八を見ないよう努めている。
 次の術比べは声まねだった。
 優れた忍びは、様々な身分の者に成り済まし、老若男女の声が出せる。鳥や獣の真似もして敵を欺くのだ。この術を身につけるには、耳の良さが不可欠だった。
 山深い場所は耳を研ぎ澄ますのに適している。
「今日は皆、己の術を思い思いに発揮するがいい。何者の声でも、どんな物音でも構わぬから、自由に聞かせよ」
 影吉がそう命じると、若い忍び達はおもしろそうにうなずいた。
 若者八人と大人達は輪になり、声まね合戦が始まった。木々の間で小鳥が囀(さえず)るのに合わせ、まずは市平が口に手を当て、鶯(うぐいす)の鳴きまねをする。続く忍びは雉の声を発した。
 すると、駒八が鹿の声で鳴き始める。これに乗る形で、宗次郎は落ち葉を踏む鹿の足音を立てた。四季の山を表わす十色(といろ)の声が森に響く。
 その後、駒八は犬になった。大きく吠え、あるいはうなり、きゃんと鳴くなど八種の声を使い分ける。宗次郎は猫をまねた。甘え鳴き、威嚇、喧嘩、喉を鳴らすなど、あらゆる習性を声で演じ分ける。
 市平は子犬、大犬の声などで対抗した。忍びが夜にしばしば用いる鼠の声、合戦で敵を驚かす鏑矢(かぶらや)の音、士気をそぐ子どもの泣き声など……。
 大人達は時折、うなずきつつ聴き入る。
 やがて、駒八が人まねで謡(うたい)をうたい始めた。大和で人気の若い能役者にそっくりの声だ。皆が惹き込まれたと見るや、声を変え、今度は老境に達した名人の節回しになる。
 市平は、京の周辺に伝わる民謡を歌った。その後、調子の全く違う琵琶法師を演じる。しばらくすると、市平の語りに合わせて、どこからともなく琵琶の音が響き始めた。
 駒八が、ただの木の棒を琵琶のように構えている。目を閉じ、口から音を奏でていた。
 その精妙さに、市平は唖然として歌うのをやめた。
 続いて駒八は、木の棒をすっと差し上げ、口に当てると横笛のように鳴らし始めた。篠笛、能管、それから、棒を縦にして尺八と、自由自在に笛を吹く。棒を捨てて、今度は鈴虫、蛙、牛、馬……すべてに成り切って見せた。
 市平は、己も何か術を出さねばと思ったが、腹と口が動かない。忍びとして鍛え抜いた耳が、駒八のすごさを認めてしまったのである。
「この勝負、駒八の勝ち!」
 影吉が締めの声をあげた。
「よしっ」
 駒八は珍しく笑い、立ち上がると、山の奥へ走り去った。それから独りで、狼のような雄たけびをあげる。
 勝者が戻ると、皆は拍手喝采を送った。市平も素直に手を叩いたが、心の臓がどきどきと乱れ打つのを感じた。
 また四勝ずつとなり、五分に持ち込まれてしまった。落ち着こうと努めるが、残る術比べはたった二種だと思うと、心身を針で突き立てられるような緊張が走った。

   二

 山を降りた皆は、田畑の広がる伊賀盆地を北上し、喰代(ほおじろ)村の忍び砦へ入った。後に、伊賀を代表する上忍、百地丹波(ももちたんば)がここで活躍し、「百地砦」と称された場所だ。
「今夜は二組に分かれ、隠遁の術を競う。一組は砦の中の好きな場所にそれぞれ潜め。もう一組がこれを捜す。一刻(約二時間)の間、隠れ切った者の勝ちじゃ」
 ともに一位の駒八と市平は、別の組になった。まずは駒八ら四人が夜の砦に散り、潜む。砦は小山のような形で、周囲は絶壁。入りくんだ坂道を登ると、頂には屋形が建つ。小山の脇には丸池があった。
 市平は宗次郎とともに、見晴らしの利かない細道を歩いた。耳をそばだてながら、周囲の草むらを棒でつつく。怪しい木があれば、登って、誰もいないか確かめた。
 山頂まで一通り調べた二人は、絶壁の下を見下ろした。
「念のため、この下も見てみよう」
 市平が言い、縄梯子(なわばしご)を下ろす。
「俺が降りるよ」
 身軽な宗次郎が梯子を伝った。崖は、岩肌が見えるところや粘土質のところ、赤土のところなどがあり、宗次郎はよく確かめながら降りる。途中、土の壁を蹴ってみたりもした。
 地へ着くと、周りを見渡し、上の市平へ手を振った。そして、また梯子を登ってくる。
「いないなぁ」
「そうか……」
 宗次郎は、市平の顔をのぞき込んだ。
「何を考えてる」
「駒八のいそうな所はどこか。他に何がある」
「俺達の番になったらどこに隠れるか、それも考えてるんだろ?」     
「まあな」
 眉間に皺を寄せていた市平は、少し笑った。
「宗次郎は何でもお見通しだな」
「いや、俺は市平に興味があるんだ。おとなしそうな顔で、何を思ってるのかなって」
 市平の笑みは苦笑に変わった。
 宗次郎は、どこかのんびりとした雰囲気だ。
「難しい勝負だけど、時はまだまだある。少し休んでから、またじっくり探そうぜ」
 明るく言い、宗次郎は縄梯子を巻き取る。
「それはそうと……どうして急に、こんな術比べをすることになったか、市平は知ってるか」
「もちろん、皆、分かっているだろう。しかし、言わないほうがいい」
 市平は小声で応えた。
「お前も、やっぱり惚れてるのか」
「…………」
「俺はそうでもないんだ」
 と、宗次郎は軽く話した。
「確かに、巫女の七津奈は可愛い。同じ柘植村の娘だしな。でも、七津奈が産む子は天下を取るって言われてるんだろ? 我が子が都を制して天下に号令するなんて、何だか怖くないか」
「怖い?」
「そうだ。俺はそこまでの器じゃない」
「七津奈と一緒になる気もないのに、なぜ術比べに?」
「ほんの腕試しさ。いい修行にもなるし。俺が一番になるなんて思ってないから」
「やってみなければ、分からないだろう」
「分かるよ」
 宗次郎は笑った。
「でも、市平は本気で勝つために来てる。すごいと思うよ」
「俺は──」
 市平は静かにつぶやいた。
「天下を取るとか、そんな野心はもっていない」
「え?」
「諸州は広い。足利将軍家でもこの世を治め切れないというのに、軽々しく天下などと考えるのは間違いだ」
「うーむ」
「天下云々というのは、俺達の子の代の話。そんな遠い世のことを、今から決めつけて、あれこれ語っても仕方がないと思わないか」
 宗次郎は考え込むように首をひねった。
「でも……気になるだろう。天下人の親になるんだぞ」
「なるべく立派な人物になろうとは思う。だが、それ以上、何をすべきかなんてまだ分からない」
「そう言われれば、そうだけど……」
「もうこの話はやめよう。今は隠れている敵を探す時だ」
 市平はまた歩き出した。
 組の者が手分けして、敵方の忍びを三人まで見つけたが、駒八の居どころはとうとう分からなかった。
 影吉が終わりの号令を発すると、屋形の前に駒八が現れる。
「参ったよ、どこに隠れていたんだ」
 宗次郎が問うた。
「はははっ、教えるもんか」
 駒八は高笑いをする。そして、市平の背後へ来て、とんと肩を叩いた。
「『つげの巫女』は俺のもんだ」
 何──。
 市平は、思わず振り向きかけたが、無視をする。
 こいつ──宗次郎との話を聴いていたな。
 市平の腹に、えもいわれぬ悔しさが湧き立った。
「では、次、今度は二組目が隠れろ」
 その声に、組の仲間達が動き出し、市平も姿を消した。
 すでに隠れる場所はいくつか考えていた。しかし、生半(なまなか)なことでは駒八に見つかってしまう。市平は、最も苦しいところに潜むことを決めた。
 水遁だ。市平は竹筒を手に、静かに丸池へ入っていった。浮草の多いところへ来ると、浅くもぐる。竹筒の先端をわずかに出し、もう一方の端を水中でくわえた。外へ出した竹は、蓮の葉の下へもっていき、見えないようにする。
 水遁の竹筒は、短くなければならない。長いものだと、息が上へ通るまでに苦しくなる。
 市平は、蓮の葉を動かさないため、細く長い息をし、身は浮かさず、沈めず、不動を保った。忍びの心得がなければ、とても息が続かず、悶絶してしまう形だ。
 駒八らは砦の中を探し回った。草むらなどは、六尺棒を振り回し、なぎ倒す。岩陰も入念に調べ、木の上には礫を投げる。鋭い石が当たっても、忍びは動かない。が、その音と感触で、駒八はすぐに見つけた。
「もう一刻が迫ってきた」
 駒八がいらついた声で仲間に言った。そしてふと、丸池へ目を落とす。
「これだけ捜して見つからんということは、もうこの池の中しかない」
 池へ近づくと、駒八は屈み込んで、水面をなめるように凝視する。風がないため、小さな波ひとつ立っていない。駒八は、そのまま水の中へ入っていった。池の半ばまでくると、突然、ばしゃばしゃと波を立てる。
 波紋が伝わり、市平の竹筒に水が入ってきた。市平は慌てて筒を引っ込め、池の深みへもぐり込む。駒八は荒々しく池の中を泳ぎ回った。市平は池の底で、岩のように身を潜めた。
 駒八は執拗に池の深みを捜す。池の周りに立った三人の仲間は、あきれたように眺めている。しかし、もし市平が飛び出してくれば、すぐ捕らえるべく見張ってはいた。
 水底の市平は、あまりの苦しさに、陸(おか)へ上げられた魚のように身をびくつかせた。それでも、己が生き物であることを忘れ、ひたすら心を鎮めて岩になる。
 外の忍びが言った。
「一刻も水遁は難しい。波も立っているのに、ずっと池の中にいるなど考えられない」
 その時──。
 駒八の手が、岩のように丸まっていた市平の背に触れた。駒八ははっと気づくや、市平の首を後ろからがっちりとつかむ。そして、勢いよく引き上げた。
「いたぞぉー、見つけたぞぉー」
 駒八は、己の肩に市平の蒼冷めた顔を乗せ、大きく手をあげた。
 仲間達は仰天しつつ、喜んで、応じるように拳を突きあげる。
「やったな、駒八!」
「お前が大将だ!」

   三

 岸へ横たえられた市平は、激しくむせて、多量の水を吐いた。
「大丈夫だ」
 案じる皆に、何とかそう言った。
「しばらく独りで寝かせてくれ」
 忍び達は屋形のほうへ引き上げていく。その様子を見届けると、しばし気を失ってしまった。
 やっとの思いで身を起こした時には、辺りは静寂に包まれ、まだ暗い中、ほのかに朝のにおいが漂っていた。空には半月が浮かんでいる。池の波もすっかり消え、水の鏡が月を映した。
 己は、駒八に敵わないのではないか──。
 市平は、そんな思いに取りつかれていた。
 今日、敗れたからではない。自然に任せていたら、駒八に負ける。そんな思いが、ずっと胸裏に巣食っていた。何とかしなければと、いつも追い込まれた心地でやってきた気がする。
 面(おもて)では無表情を決め込み、時にはほほえんで見せながら、裏では必死で余裕がない。先刻の池での攻防そのものだ。己はいくら水面を揺らさないように隠れても、中では苦しみもがいていた。
 駒八はそれを見抜き、荒々しく、一気に攻めてくる。まるで、天地を味方につけているかのように……。
 遁術とは、どこか「天に任せる」という気持ちがなければ、やり通せない業(わざ)だ。敵が気づくかどうかは紙一重であり、焦ったり、力んだりすればするほど見つかりやすい。
 市平は泥だらけの身体で蓮華座を組み、目を閉じて合掌した。
 己で己を追い込んでどうする。なぜ、こんなにも心が乱れるのか。
 考え続けて、市平は気づいた。
 欲か──。
 己は池の中で、すべてを殺し、苦しみに耐えているつもりだった。しかし、心の底では、絶対に負けたくないという欲が、誰よりも強く燃えたぎっていた。その炎に焼かれ、己は塗炭(とたん)の苦しみを味わっていたのではないか。
 息を殺すのでもない。動きを止めるのでもない。まず、この欲の炎を消すことが肝心だ。
 駒八のように逞しい、角の立派な雄鹿には負けよ──それが己に課せられた天命であるならば、受け入れるほかはないだろう。
 市平は、何度も何度も、駒八に負ける様を思い浮かべた。そして、身悶えするような悔しさを味わう。
 少しずつ、耐えられるようになってきた。それに従い、凝り固まっていた身体の力が抜け始める。
 やがて市平の心は、天空の意思を聴くかのように、潔い気持ちで満たされた。
 勝負の事は、武の神にお預けいたします。どうか私を、一段、高い忍びにしてください──。
 すると、不思議なことに、駒八に負ける図(え)が浮かばなくなった。むしろ、雄鹿を己が手懐けているような夢想が胸に立ち現れる。
 市平は静かに目を開けた。

 他の忍び達は、小山の上の屋形で休んでいた。
「しかし、市平のやつ、頭がいいだけじゃなく、根性もあるなあ」
 一人の忍びがそう語った。
「本当だな」
 宗次郎が話に加わる。
「それにしても、駒八がどこに潜んでいたのか。俺はそれが気になるな」
 身体を清めて戻った駒八が、宗次郎の横にどっかと座る。
「なあ、駒八、もうこの勝負は終わったから、教えてくれてもいいだろ?」
 駒八は、髪を器用に結い直しながら応えた。
「絶壁に穴を掘って入り、外は土色の布でふたをした」
「隠れ蓑か……」
 宗次郎は吐息をついた。
「崖は隈なく見たつもりだったけどな」
「運がよかっただけさ」
 駒八は笑って、近くにあった茶瓶の水をあおった。
「宗次郎、お前は、その箪笥の引き出しに隠れていたらしいな」
「うむ」
 宗次郎は恥ずかしそうに頭をかく。
「赤子の隠れんぼじゃあるまいし」
 周りにいた忍び達が皆、笑った。その一人を指して、宗次郎は言い返す。
「でも、お前、見つけた時、すごく驚いてたろ?」
「ああ。まさか、この術比べに参じるほどの忍びが、あんなところに隠れているとは思わなかったから」
 忍びは笑いをこらえつつ応えた。
「敵の意表を突く。これぞまさに忍術だ」
 宗次郎は妙に胸を張る。
「奇襲なら、成功だったかもしれんな」
 駒八が笑いながら言った。
「だろう?」
 宗次郎は機嫌をよくして、駒八の手から茶瓶を取り、自らの器に水をついだ。

   四

 次の日、忍び達は服部川の河原に集められた。朝陽がまぶしい。
 市平は清々しい気分だった。昨日まで感じていた、胸が何かで押しつけられたような重さがない。
 一方、駒八は今までに比べると、少し力が入っているように見えた。術比べを締めくくる戦いに、気合を込めているのか。
「最後は剣術で勝負してもらう」
 大人達は、真新しい白樫(しらかし)の木刀を用意していた。
 まず、駒八が木刀を執った。相手の忍びは、年は二十歳そこそこだが、色を黒く焼き、髭を生やして貫禄をつけている。駒八と並ぶと、まるで野武士二人だ。
 皆が食い入るように見守る中、市平はやや後方から、常の呼吸で二人を眺めた。
 影吉が、両者の間に扇を指し入れている。それをぱっとあげた。かかれの合図だ。
 次の刹那、
 かんっ──。
 白樫の木刀が空へ舞い、河原の石の上に落ちた。
 髭の忍びは目をむいている。その手に木刀はなく、駒八の切っ先が喉元に突きつけられていた。
「勝負あり!」
 次に、駒八に挑んだ忍びは、早技に用心して間合を遠めにとった。駒八は動かない。しかし、相手をにらみ、強烈な気合いを発していた。
 その力と戦うように、忍びはじりっ、じりっと、間を詰め始めた。構えは中段だ。駒八は無造作な下段で、ただ待っている。足もとの砂利が、きしみもしない。
 周囲は、川の流れも止まったかと思えるほど張り詰めた空気に包まれた。
 忍びが大きく一歩出る。速い。しかも、音も気配もなく、体(たい)がぐっと前へ出て、同時に剣は八双(はっそう)へ振りかぶった。 
 袈裟斬りだ──。
 駒八のほうに、相手の鋭い太刀筋をかわす用意はない。
 その時、
「うっ」
 忍びの木刀が、駒八の肩から一寸のところで止まった。そのまま、忍びは身を丸めて膝を折る。
「勝負あり!」
 影吉が二人の間を扇で分けた。
 敗れた忍びは、何とか立って退いたが、険しく眉を寄せ、奥歯を噛んだ。
「くそっ、思い切りやりやがって」
 駒八は、間合が充分に詰まった瞬間、下段から敵の急所へ切り上げていた。刀ならば一撃必殺、木刀でも、一流の忍びでなければ卒倒しているところだ。
「何か言ったか」
 駒八は、負けた忍びに声をかける。
「誰が思い切りやるか。立っていられるくせに、大袈裟な」
 市平は、駒八の剣の強さと早さ、しなやかさに圧倒されかけた。焦らぬよう懸命に、深く長い息を保つ。
 三人目の忍びは下段から攻めて、駒八に真っ向から面(めん)をとられた。四番目に挑んだ者は、駒八の剣をうまく受けて競り合いに持ち込んだが、間もなく力負けし、馬乗りの格好で腹を刺された。
 ついに市平の番になった。
 一瞬、怖さを感じかけたが、青々とした空に輝く日輪を仰ぎ見ると、無限の力を浴びたようで、身体が温かくほぐれた。
 市平は半眼で、駒八の前に立った。
 影吉が「始め」の合図をする。
 市平の姿は、幻か陽炎のようだった。今まで河原を占めていたぴりぴりとした雰囲気が、すっかり消えている。
 ややあって、
 がりっ──。
 駒八の踏んだ砂利が音を立てた。大きく重い男の身体が、地にとらわれた瞬間だ。
 その刹那、市平は木刀を真っ直ぐ前へ突き出した。無念無想。剣の動きは、まるで切っ先のほうから、何かで引っ張られたかのようだった。
 市平の突きは、駒八の鳩尾(みずおち)をとらえた。駒八の身は腹のところで二つに折れる。
「勝負あり!」
 影吉が素早く止めた。
 駒八はしばらく息もできない様子だった。しかし、表情はほとんど変えない。座り込むこともなく耐えた。
 それから、勝者市平に礼をし、静かに立ち合いの場を離れた。
 皆はまだ真剣な目で二人を見ている。
 市平は、次の相手へ心を切り替えていた。
 その忍びは、逆手に構えた。下から市平の胴を狙い打つ。市平は敵の太刀を上から叩き落とし、首へ切っ先を付け、一本取った。
 最後の一人は宗次郎である。
 二人は、どちらもなかなか攻めかからなかった。小柄な上に、腰を低く落とした宗次郎は、打ちどころが見つけにくい。
 攻め手を探す市平は、次第に行き詰まったような心持ちに陥った。宗次郎は身のこなしが早い。どう動いても、対応されるのではないか。
 考えるのをやめた瞬間、宗次郎がひらりと身を舞い上がらせた。
 市平の脳天へ、鋭い太刀を切り下ろす。市平はとっさに、左の手をあげて防いだ。己の木刀は右手にある。
 宗次郎の剣が市平の左腕を打った。
 勝負あり──。
 皆がそう思った時、市平が右手で宗次郎の腹をなぎ切っていた。
「そこまで!」
 影吉が声をあげる。
 二人の剣士は油断のない残心で、互いに見合っていた。
 影吉は、大人達へ目を移す。
「今の勝負、どう見た」
 一人が応えた。
「相打ちだろう」
「いや、宗次郎が早かった」
 すると、三人目が言った。
「ほぼ同時だが、宗次郎の剣は、市平の剣を止めてはおらん。真剣ならば、宗次郎は死んでおった。腕を切らせて本体を断った市平の勝ちじゃと、わしは思う」
 市平と宗次郎は、ようやく間合いをとり、木刀を下ろした。
「しかし──」
 と、初めの大人が続けた。
「真剣であれば、市平とてこれほど躊躇なく、腕で太刀を受け止められぬはず」
 その時──。
 突然、宗次郎がどたりと倒れた。血を吐いている。
 一同は目を見張った。
「勝負は決まったようですな」
 影吉が言い、誰も異論は唱えなかった。

   五

 若者達の術比べは終わった。
 九種の忍術で競ったが、市平と駒八には引き分けが一つあり、一番が二人となってしまった。
 忍び達は一旦、各々の家へ引き上げるよう命じられた。宗次郎も命に別状なく、家へ帰っていった。
 翌早朝、大人達は神社に寄り合い、密かに七津奈を呼び出した。
 神前には檜の三方(さんぽう)が置かれている。その上には三枚の紙があった。
「七津奈よ、神を拝んでから、この札を一枚引きなさい」 
 影吉が命じた。
 七津奈は黙って言う通りにする。
 明け始めた空には薄雲ひとつなく、風もやみ、社の森からあらゆる音が消えた。
 若い巫女が一枚の紙を手に取る。そして、影吉に渡した。
 選ばれた紙を開いた影吉は、他の地侍達にその札を掲げて見せた。
「おぅー」
「うむ」
 大人達は、神妙な面持ちで低い声をもらす。
 札に書かれていたのは、「市」の一文字だった。残り二枚の札には「駒」、「決戦」と記してあったのだ。
 何も知らない七津奈に、一人の地侍が告げた。
「そなたの婿が、今、決まったぞ」
「…………」
「服部の市平じゃ」

 次の日──。
 神社に市平と駒八が呼ばれた。
 影吉は、昨日、七津奈の引いた札を、貴人の笏(しゃく)のように恭(うやうや)しく持ち、二人に言い渡した。
「服部の市平、高山の駒八、お主らは、変装の術で引き分け、他の術比べではともに四勝ずつをあげた。甲乙つけ難い」
 二人はひざまずき、影吉の話を聞く。
 市平は悔しい気持ちだった。己は、負けても常に三番の内に入っていた。一方、駒八は五番の時があった。しかし、初めに、九種のうち一番を取った数が多い者が勝ちと定められていたため、その決まりに則れば、二人は引き分けなのだ。
 あとは影吉ら大人の衆が、どう考えるかである。
 駒八は駒八で、負けたとは思っていないらしい。もう一度、何かの術で戦いたいという気勢が五体から滲み出ていた。
 すると、影吉はこう続けた。
「皆で話し合った末、勝負は神の声により決した」
 市平と駒八は、影吉を見上げる。
「どういうことですか」
 駒八がきいた。
「心の清い者に、籤(くじ)を引かせた」
 二人は何も言えなくなり、従順に頭を下げる。
「忍術九種、術比べの勝者は──服部市平!」
 影吉は、「市」と書かれた札をこちらへ向けた。
 市平は、恭しく神を拝んで礼をする。
 武の神が──私のもとへ降りられたか。
 神前が輝いて見える。これほど誇らしい気持ちになったことはかつてなかった。跳び上がって喜びたい。
 だが、隣にいる駒八の心情を慮り、己を抑えた。
 駒八はうな垂れ、唇を噛んでいる。術比べの時、殺気すら漂わせていた雄鹿も、今は分別を弁えた「人」に戻らざるを得なかった。打ち砕かれた血気の余波が、駒八の大きな肩を震わせた。
 しばらくの後、駒八は神に一礼して、腰をあげた。重い足取りで退いていく。
 市平もゆっくりと立ち上がった。
 影吉がほほえみ、市平の肩をがっちりとつかむ。
「お前はまことに、天の才を受けた上忍じゃ」
「ありがとうございます」
「伊賀者の名は、やがて諸州へ轟くであろう。我らもお前を助ける。安心し、存分に働け」
「若輩者ゆえ、何卒よろしくお願い申し上げます」
 周囲の大人達も歓び、拍手をした。
 地侍の一人が言う。
「あれだけの激戦を勝ち抜き、神に選ばれたというに、何と謙虚な若者か。皆で市平を盛り立てようではないか」
 皆が市平に祝いの言葉を述べ、市平は丁重にこれを受けた。

  六

 市平が帰った後、神社では大人達が、術比べの間の労をねぎらい合った。
「皆の衆のおかげで、稀有な若者を見出すことができた」
 影吉がひとり立ち、座した人々に言う。
「市平はもちろん秀逸だが、俺は駒八もなかなかの武士になると見た。いかがかな」
「その通り」
 齢六十近い地侍が、すぐに応じた。
「若者達は皆、今日からでも合戦に出られるほど優れておった。速やかに、天下取りへ向けた伊賀者の方針を決めるべきであろう」
「左様。俺もそう考えている」
 影吉は満足げな様子だ。
「神から、かのお告げが出た際、多くの村長(むらおさ)、長老達は、これを不吉と恐れた。しかし、俺は勇気をもって術比べを行なおうと言い出した。今、己の決断に誇りを感じている」
 大人達は、影吉を讃える面持ちで話を聞いた。
「俺は服部市平の後見役になろうと思う。市平を立派な武士にし、その子をやんごとない大君に育てあげる。皆の衆も、ぜひ力と知恵を出して欲しい。市平を支えてやって欲しいのだ」
 自信にあふれた影吉の声が、大きく響いた。
 ところが──。
 その勢いとは裏腹に、一座は何となく妙な雰囲気になり、静まった。
 皆の顔を見回した六十の老士が、おもむろに口を開く。
「これは、伊賀者が天下を取るという話じゃ。何事も皆で話し合い、熟慮した上で決するべきじゃと思う」
 一同は、揃って大きくうなずいた。中の一人が話に加わる。
「市平の後見には、もっと経験豊かな、老境に達した人物こそが相応しいのではないか」
 皆の目が、老士へ集まった。
 大きく構えていた影吉が、険しく眉を寄せる。
「俺では不足だと?」
 一座がぴりぴりとし始めた。
「まあ、落ち着け」
 老士が、穏やかな声音で語る。
「影吉の勇気は、誰もが認めるところじゃ。しかし、お主が都で多くの合戦を戦ったか、といえば、そうではあるまい。忍術においても、市平や駒八を上回るとは言い難い。この場には、他にも一角の武士がおる。長年、村をたばねてきた知恵者もおる。まずは、そういう者を立て、いろいろと学んでから、影吉も天下取りへ参画してはどうじゃな」
「俺ももう三十を過ぎた。若造扱いをするな」
「お前には長い目で物事をとらえて欲しいのじゃ。天下を取るのは市平の子。その頃にはお前も老境へ達していよう」
「嫌だ」
 影吉は、突然、子どものように言い放った。
「俺は細く長く生きるなど御免だ。すぐにでも合戦に出て、名をあげたい」
「ほう。……それは見上げた心がけだ。ならば、まずはお前が大戦さにでも参戦し、手柄をあげろ。それを手土産に、市平のもとへ戻ってくればよかろう」
「何だと」
 影吉は肩を怒らせた。
 老士は落ち着いたまま、嘲笑する。
「それ、そういうところじゃ。お前はすぐにかっとなる。お前のように気短かな者の『勇』を、『血気の勇』と申すのだ」
 多くの者が、影吉に冷たい目を向けた。
 影吉はひかずに反論する。
「お前達は卑怯だぞ。俺が言い出したおかげで市平を見出したのに、術比べが終わればお払い箱か?」
 すると、やや若い地侍が小声で言った。
「影吉が欲張り過ぎるからだ」
 影吉は悔しげに地を踏み、わめいた。
「許さん! 皆で寄ってたかって、俺を虚仮(こけ)にしおって。お前達になど、もう何も頼まん!」
 そして、皆の輪から出る。
「俺は俺のやり方で、市平に天下を取らせて見せる!」
 捨て台詞を吐くと、神社から駆け去った。

   七

 市平の村の若い衆は、勝利を祝う宴を催した。昼間から飲んで騒いで、芸達者な者は踊り出す。市平も気分よく謡を披露したり、忍術について語ったりした。
 しかし──。
 酒宴の賑やかさを見ているうちに、市平は、何となく虚しい気持ちになり始めた。皆はあたかも、もう天下を取ったかのように騒いでいる。どこか、真に大切なものからずれているように感じた。浮かれ過ぎなのだ。それは己も同じだった。
 市平は騒ぎの渦中から抜け出し、独り裏山に隠れた。
 森の中で、高ぶった気持ちを一度、鎮めたい。
 市平は無心に剣をふった。
 無心のつもりでも、次第にまた術比べのことが頭に蘇った。友たちの賞賛の声が耳に残っている。
 己自身も、あの大きく強い駒八に勝てるとは思わなかった。特に剣術では、難しいと考えていた。己はまことに凄いのではないか。神がついているのではないか。そんな喜びが、心の底から湧き上がる。
 そして胸中には、七津奈の美しい舞い姿が浮かんだ。七津奈とともに暮らす毎日は、どれほど素晴らしいだろうか。やはり、どこかふわふわとした高揚を禁じ得なかった。
 市平は、気を引き締めるため、荒めの修行をしようと思った。剣は一旦、おこう。刀を鞘に納め、腰から外して木に吊りさげた。気合を入れるように、己の頬をばちりと叩く。肩や腹なども厳しく打ち叩いた。
 それから、近くの高い木へ登る。枝に足をかけて、蝙蝠(こうもり)のようにぶら下がった。その格好で謡を始める。やがて、だらりと垂らしていた手を目の前まで持ち上げ、指の関節をいじり出す。
 小指は術比べの時に折れて、まだ治り切っていない。市平は他の指の関節を緩め、外そうとした。
 関節を外すのは、武術の関節技に対抗したり、狭い場所を通り抜けたり、縄で縛られた時に解いたりするためだ。身体の隅々までばらばらにできれば、それだけ術の幅は広がる。
 しかし、指の関節を外したことはまだなかった。市平は名調子で声を出しながら、息を乱さず、指の関節を外そうと試みる。痛い。しかも、なかなか外れなかった。指が壊れそうだ。
 しばらく格闘したが、無理だと悟った。
 今度は、逆さまの格好で体を二つ折りにして、脚に抱きつく。しばらくこの形で止まり、再び体を伸ばす。それを百回繰り返した。百回目に手で枝をつかみ、猿のように木から降りる。
 身体を鍛えたり、痛みに耐える修行をしていると、日常を取り戻せたような気がした。
 その時、草むらでかさかさと音が立ち、何かが走った。とっさに、刀を吊りさげている木のほうへ向かう。
 間もなく、市平は自嘲の笑みをもらした。兎だ。こんなものに驚いたのか。
 しかし、兎の尻を見送った市平は、再び周囲の気配に耳をそばだてた。
 やはり、誰かいる──。
 次の瞬間、
「驚かせてすまん」
 少し離れた木の陰から、影吉が現れた。
「ああ、赤場様──」
 市平は会釈する。
「この度はお世話になりました。御用の時は、呼んでくだされば、こちらから参りますのに」
「いやいや」
 影吉は笑った。
「しかし、驚いた。勝ったその日に、油断もせず、自らに修行を課すとは見上げた心がけだ」
「いえ」
 市平も柔和に応じる。
「今、柘植村にも参ってきた。七津奈に改めて、お前のことを話してきたぞ」
「ありがとうございます。その後、柘植の宗次郎の具合は?」
「はははっ、あれも忍び。もうぴんぴんしておるわ。早く七津奈の祝言に出て、ご馳走が食いたいなどと申し、村の衆に笑われておった」
「宗次郎らしいですね」
「うむ。七津奈の母は、早速、嫁入り支度を始めるそうじゃ」
 市平は重々しく頭を垂れた。
「何じゃ、真面目くさって。もっと喜ばんのか」
 影吉は市平の肩をつつく。
「いえ、喜んでおります。よき娘御ですから、大事にさせていただきます」
「うむ」
 それから、影吉はやや声を落とした。
「よいか、市平、お前の天下取りについては、国中の皆が賛成しておるわけではない。お告げが逆さまであったゆえ、慎めなどと申す長老衆もおる。前途は多難じゃ」
「はい」
「それゆえ、俺がお前の後見役となって、足を引っ張る者達から守ってやる」
「…………」
 市平は驚き、返事に困った。
 そのように大事なことを、なぜ森の修行場で、雑談に続けて言うのか。
「どうした、市平」
「お志はありがとうございますが、そうしたお話はまた、きちんとした場でゆっくりうかがいたいと思います」
「ゆっくりしておる暇などないぞ」
 影吉の口調は強くなった。
「天下を取るには時がかかる。今すぐお前が動き出しても、子の代で世の頂きを極めるのは大変だ」
 市平は何となく嫌な予感がしてきた。
「失礼ながら、後見役云々のお話は、術比べに携わられた皆様のご総意ですか」
 そう尋ねた瞬間、影吉の顔色がさっと変わった。
「お前……後見が俺一人では心許ないと申すのか」
 影吉は明らかにむっとしていた。しかし、懸命に息を鎮め、再び声を落とす。
「俺は確かにまだ、さほど大きい男とはいえんだろう。しかし、お前が俺を後見人と決めれば、必ず皆もついてくる。お前も、多くの大人達の機嫌をとったり、意見をまとめたりするより、万事、俺に任せたほうが楽ではないか」
 市平は、大体の様子を察することができた。影吉は、皆の同意を得ずに抜け駆けを狙っているらしい。このような話に乗るわけにはいかない。
「とにかく、今、決めることはできかねます。どうか、今日のところはお引き取りください」
 市平は深々と頭を下げた。
「お前……断る気だな」
 影吉はまた怒りを表した。
「伊賀では、これまで数々の上忍が出たが、誰が一番だなどと決める習わしはなかった。そんな古い国の有り方に風穴をあけたのが、俺だ。お前が、名誉と七津奈を得たのは、俺の勇気のおかげなのだぞ」
「そのことは、よう存じております」
「お前は人の恩に報いようという気はないのか」
「それは……」
「すぐに心を決めろ。俺がお前の後見役となり、駒八に、お前を守る親衛隊を作らせる。そうすれば、誰が敵に回っても我が道を貫ける」
 市平は、大きく一歩、後ろへさがった。
「お待ちください、赤場様。私は伊賀の衆と戦さをするつもりなどございません」
「これは万一の場合の備えだ。戦うまでもなく、俺が反対派を退けてやる」
「国を二分するのは、よいこととは思えません。もっと慎重に事を進められませんか。ご神託を不吉と見る方々の心も、分からぬではないのです」
 影吉は信じられないという顔で言った。
「よもやお前……かつての平家一門の二の舞いになるのを恐れて、気が引けておるのではあるまいな」
「恐れているつもりはありません。しかし、もし私の子が天下を取っても、次の代には没落しているかもしれません。百年後、二百年後に、子々孫々が幸せとは限らない。伊賀国や畿内一円が、平穏に治まっているとは限らない。そういう考えはあります」
「臆病な長老どもと、同じ考えか。そんな事なかれの構えで、天下が取れると思うのか」
 市平はついに、はっきりと本心を言うしかないと思った。
「冷静さは大切です。勇んで動いて、天下が取れるとは思いません」
「…………」
「古い方々と私が、同じ考えかどうかはともかく、老人達の話には深い知恵があると思っております。軽々しく、若い私が先頭を切って走っても、広い世を牛耳れるはずなどございません」
 市平は真剣に理を説いた。
「何と覇気のないっ」
 影吉は言い捨てた。
「お前のように老成した、夢も野心もないやつが、なぜ術比べなどに出た」
「私は忍術が好きなのです。この道では、誰にも負けたくありません」
 静かに語る市平に、影吉は吐息をついた。
「そうか。ならば、もう気が済んだであろう。七津奈は駒八にやれ。俺は、天下をめざしもしない男を、この術比べで選んだつもりはない」
 何を言い出すのか。市平は訳が分からなくなった。
「どうした。お前は忍びの術を発揮したかっただけなのだろう? 伊賀で一番の忍術者。その名誉はお前にやろう。だが、伊賀で一番の武者は駒八だ。やつには闘魂がある」
 影吉の論は無茶苦茶だ。
 市平は動じるものかと思った。神の決めたことを覆せるはずはない。血気に燃えた野心がなければ、武者でないなどと……伊賀の武神が、そんなことをいうはずはない。
「七津奈には、駒八に嫁ぐよう申す。よいな」
「いいえ」
 市平はきっぱりと断った。
「では、腹をくくって天下取りに励め」
「私は私なりのやり方で、伊賀のために精進いたします。余人のお指図は受けません」 
 影吉が本気で怒ったのが分かった。かっとしたというよりは、何かおどろおどろしいものを感じる。
 一瞬、黙った影吉は、脅すような口調をやめ、小さな声で言った。
「そうか。分かった。ならば勝手にしろ」
 悲しげに肩を落とし、踵(きびす)を返した。
 次の刹那──。
 影吉の背に異様な殺気が表れた。ひらりと振り返る。同時に、抜き身の刀で市平の足を薙いできた。市平は跳ぶ。しかし、影吉の切っ先が足をかすめた。
 着地した市平は、そのまま一重身で後ろへさがった。影吉に目を付けつつ、木に吊った己の刀を手で探る。その間にも、影吉が踏み込み、切りつけてきた。今度は面だ。市平はぎりぎりのところで刃を見切った。
 再び跳ぶと、木の上に立ち、下げ緒で刀を引き上げる。
「乱心なされたか」
 市平は刀を握って言った。
「どうかしておるのは、市平、お前のほうだ」
 影吉は木の上をにらみ上げる。
「天下が取れるというのに、取らぬ者がどこにおる」
 そして、影吉は不気味な目を空(くう)に据えた。
「市平、お前が死ねば、伊賀で一番の若者は駒八だ。神も皆も、認めざるをえぬ。俺はお前を斬って駒八を立てたつわもの。いずれこの世を牛耳るのだ」
 市平の足からは、血がしたたり落ちていた。
 影吉はじわじわと枝の下へ近づいてくる。そして、市平の足を突き上げた。市平はまた跳び、地へ降りる。次の瞬間、刀を鞘ごとふるって影吉の背を打った。
 神よ──教えてください。私はどうすべきなのですか。
 市平は天に問いながら、刀の鯉口(こいぐち)を切った。
 心を、大きな悲しみが占めている。
 『天下』という言葉は恐ろしい。人の欲心、野心をかき立て、正気を失わせてしまう。無用の殺し合いまで引き起こしてしまうのだ。
 己がまず努めるべきことは、このような惨事を避けること。己の心からも、皆の心からも、天下取りという病を取り除くことだろう。
 市平は、浮かれた感じも、困った気持ちもなくなり、胸中が明瞭に晴れた心地がした。
「こい、影吉」
「うぬ……」
 影吉は打たれたものの、強(したた)かにまた立ち上がり、こちらを向いてきた。
「市平、お前など私利私欲の塊だ!」
 影吉は怒鳴りつつ、間合を詰める。
「伊賀のために精進? 笑わせる。お前は美しい七津奈が欲しかっただけだ。そうだろう? 女を得てしまえば、あとは知らんか? 小さい男め。死ね!」
 影吉が袈裟切りを浴びせてくる。かわし様、市平は刀の鞘を払った。同時に、腰を低く落とし、前へ突進する。剣と剣の間合ではなかった。市平の切っ先は斜め後方を向いている。影吉に体当たりし、足を取って転ばせると、一気に組み敷いた。
 市平は影吉の首へ刃を当てる。影吉は息を詰め、汗を滲ませた。
「赤場様、まだ四の五の言われますか」
「いや……」
 影吉は総毛立ったように身を縮めている。
「市平……」
 と、頬を震わせて言う。
「許してくれ」
 市平は、身も表情も動かさない。
 影吉はやがて、ぐったりと力を失った。
「お前はさすが、伊賀で一番の男だ。勇気も覇気もある。俺が間違っていた」
「あなたのような人を、後見役にはできません」
「無論だ。もうお前には近づかん。だから許してくれ」
 市平は刀をひらりと返して鞘へ納めた。そして、立ち上がる。
 静まり返っていた森に風が吹き、草や木の葉がさわさわと音を鳴らした。
 間もなく、
 がさがさがさっ──。
 せわしい音が立ち、影吉が、草深い坂を転がるように逃げていった。

   八
 
 幾日かが過ぎた。
「新しい嫁のために、わざわざ家を直しているのか」
 市平のところへ遊びに来た宗次郎が、冷やかすように笑った。
 庭に面した広い部屋で、市平は戸板をせっせと削っている。宗次郎は縁側へ上がり、茶をもらいながら、おもしろそうに覗いた。板の上方、真ん中辺りに穴があいている。
「どんでん返しか?」
「うむ」
「敵の襲撃に備えて、か……」
 つぶやいてから、宗次郎は市平をじっと見て、小声になった。
「赤場影吉のこと……聞いたよ」
 宗次郎は、市平の足に巻かれた晒に目を遣る。
「やつは、剣術が達者なことで知られた男だ。よくしのいだな」
 市平は固い顔つきで、戸板から目を離さない。
「心配するな。みんな市平の味方だ。影吉は、お前の背後で権勢を振るおうと企み、大人達から顰蹙を買ったらしい。それで、焦ったのだろう」
 宗次郎は順序立てて状況を説く。
「市平に刃を向けるなど以ての外。もう伊賀には居づらくなって、国から出ていったらしいぞ」
「そうか……」
 うつむき加減で、手を動かし続ける市平を見て、宗次郎は声を明るくした。
「どんでん返しなら、軸にするのにいい木があるぞ。固くて、滑りもいいんだ」
「本当か?」
 市平はようやく破顔した。
「うむ」
 少し間を取ると、宗次郎は妙に落ち着いた趣きで言った。
「俺は、七津奈とはお前が似合うと思う。駒八みたいなのは……たぶん、好みじゃない」
 市平は、どう応えてよいか分からず、槍鉋(やりがんな)を置いて立ち上がった。
「茶が冷めただろう。淹れ直そう」
「いやいや、もう気を遣わないでくれ。村々をぐるっと走るのに、ちょっと寄っただけだ」
 宗次郎はそう応えたが、市平はすぐに湯を持ってきて、丁寧に茶を注いだ。
「すまないな」
 宗次郎は、ありがたそうに湯飲みを取る。
「そういえば──」
 市平は、ふと思い出して口を開いた。
「術比べが終わったら、読経の仕方を教えてやると言っていたな」
「ああ」
「どういうところが苦手なんだ」
「そうだなあ……。声はまあまあ出るんだが、何となく、しっくりこないというか……」
 市平は、しばし考えてから言った。
「俺達は所詮、偽坊主だから、本物の坊主を真似よう、真似ようと、妙な気持ちが入ってしまうだろ?」
「うむ」
「それが何となく、おかしくなる元だと思う。本当に仏を思い浮かべながら、一心に唱えれば、少々下手でも、よい修行僧に見える」
「なるほど」
「もし、技そのものを学びたいのなら、まず、各宗派の寺へ潜り込み、ひたすら聴くのがよいだろうな。僧に成り切るには、経だけでなく、装束や仕来(しきたり)も覚えねばならん」
「これがまた、ややこしいんだ」
 苦い顔の宗次郎に、市平は家の奥からいくつかの書や巻き物を取ってきて見せた。
「主な寺の経文だ」
「へぇー」
 宗次郎は興味深げにめくる。
「しばらく貸すから、好きに写したらいい」
「いいのか?」
「ああ」
 宗次郎は経の一つに目を留めた。
「これはどう読むんだ」
 市平は半眼になり、手を合わせて経を唱え出した。
「すごい。諳(そら)んじているのか」
 宗次郎も真似をし始める。
 その後──。
 二人は、半刻ほど読経の稽古をした。忍術についても様々な談義を交わし、あっという間に日が傾いた。
「じゃあ、明日は一緒に走るか」
 宗次郎が楽しげに言った。
「うむ」
「俺の家にも寄ってくれ。どんでん返しの軸木も渡したい」
「おぉ」
「あー、すっかり長居をしてしまった」
 宗次郎は大きく伸びをし、庭越しに空を見上げる。鷹が、弧を描くように飛んでいた。
「なあ、市平」
「ん?」
「俺は、お前がもっと、小知恵の回る器用なやつなのかと思ってた」
 言いながら、頭をかく。
「でも、案外、融通の利かない純朴な男なんだな」
「…………」
「市平が、剣の勝負で駒八を倒した時は、心の底から驚いた。あんな獣のような大男を一突きにするなんて。駆け引きも何もない。こいつは、もしかしたら、頭で戦ってるんじゃないのかもしれない。そう感じたよ。皆は、お前を天才の一言で片づけるけど、お前はいろんな意味で本当に強い男なんだと思う。神が降りてくるのは、たまたまではないんだ」
「……少し、褒め過ぎではないか」
 市平は恥ずかしくなった。
「いや、そんなことはない。駒八も、市平の強さには恐れ入ったと言ってた。あいつは小さい頃から村では何でも一番で、よその村の者と喧嘩しても負けたことがない。皆に化け物と呼ばれてきたそうだ。でも、残念ながら……神童と呼ばれたことは一度もなかった。神に好かれた者というのは恐ろしい。頭を使っても勝ち、思慮を捨てても勝つ」
 宗次郎は更に語った。
「駒八は後悔してたよ。勝負のためとはいえ、市平に無礼なことを言ったり、不用意にからんだり、要らないことをし過ぎた。もう嫌われてしまっただろうなって。柄にもなく落ち込んでいた」
「あの駒八が……」
「影吉の一件もあって、駒八は当分、血気や野心は捨てるそうだ。俺は市平を殺してまで一番になりたいとは思わない。いつか本当に立派な忍びになって、市平に負けていないという証を立てたいんだって」
「さすが、駒八だな」
 つぶやく市平の言葉を聞いて、宗次郎はゆっくりと言った。
「さすが? ……ということは、市平も駒八を認めているってことかな」
「当たり前だ。皆も見ての通り、やつとは常に互角だった。影吉と同じような血気の士かとも思ったが、退く時には退く賢明さもある」
「そうだな」
 宗次郎は静かにほほえんだ。
「よかった。二人とも、人物が大きくて本当によかったよ」
 市平は何ともいえない気分になった。
 ほっとしたような、胸の中に光が灯ったような……。
 宗次郎の顔を見ていると、気持ちが温かくなる。愛嬌のある表情とともに繰り出される何気ない話の一つ一つが、市平の心をほぐしていくのだ。
「考えてみれば、一番、度量の広い男は、宗次郎、お前だな」
「え……?」
「駒八のことも俺のことも、よく見て、思いやってくれている。相手と張り合わず、そういうことができる器はすごい」
 宗次郎は照れたように下を向いた。
「いやぁ、俺はただ市平と駒八に惹かれているだけだ。この二人が、伊賀の若者の中で傑出しているのは間違いない。村の中では自慢しているんだ。俺はこの二人に次ぐ、優れた忍びなんだぞって」
 独特の童顔が、笑みをたたえた。
 市平の頬も緩む。その様を見届けると、宗次郎は腰をあげた。
「じゃあ、また明日」
 言うが早いか、ひょいっと縁から跳び降り、あっという間に姿を消した。
 縁側に積んでいた書物や巻物もない。ちゃっかり持ち帰ったようだった。

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